《めぞん一刻》 揺れる一刻館 ──一九八四年十一月──  目 次  1 雨の来訪者  2 惣一郎の蜃気楼  3 嵐の襲来  4 降りやまぬ雨  5 雲去りし後  1 雨の来訪者   *  アパート名 一刻館  所在地 東京都秋津市時計坂2-6-5  築50年以上(恐らく大正)  5世帯7人居住 ほぼ全てが不良住人  家賃 十畳一間2万600円、八畳(十畳)+六畳3万8000円   一ヶ月総家賃収入 13万7800円   完全な赤字経営とみられる  管理人 女性 24歳(家主の義理の娘)  敷地面積 484.0平方メートル  実勢土地価格 27万/平方メートル   *   1  けたたましい音をたてて、管理人室の電話が鳴り出した。 「はーい、はいはいはいっ」 あまり意味もなく返事しながら部屋に駆け戻ると、響子は電話の前にペたりと座って受話器を取った。 「はい、音無です」 「あ、こちら遠山不動産ですが」 「あ、遠山さんですか? いつもお世話になってます」 とは言ったものの、響子が管理人になってから入居したのは、手違いで入ってきた二階堂だけだ。だがその時、遠山は思いがけないことを言った。 「入居希望者が一人いるんですが」 「入居希望ですか!?」 響子はすっとんきょうな声をあげた。 「何か、差し支えがありますか」 「いえ、部屋は空いてるんですけど……」 不良住人のうわさを聞いてなくとも、物件案内の「築50年以上」という文字を見るだけで、たいていの人間はしり込みするだろう。気に止めない人間は、どこか世間の規格からはずれている。 「……で、その人のお名前は?」 「三瓶太介(さんべたすけ)さんです。数字の三に瓶(かめ)という字を書いて、三瓶です」 カメってどんな字だっけと思いながら、響子は取りあえず、「三べ」とメモした。 「それで、今すぐ入りたいとおっしゃってるんですが、構いませんね」 「えっ!? 今すぐ!? それはちょっと……」 「なに、掃除も何もしなくていいってことなんで、部屋の場所だけ教えてもらえればいいんです。じゃ、そーゆーことで」 「そんなこと言ったって、……あ、ちょっと!? もしもし!」 電話は切れていた。  強引に話を切り上げてから電話を切ると、遠山は大きく息をついてから客を振り向いた。 「何とか入れたからいいですけど、今すぐなんて……」 「すみません、無理をお願いして」 四十がらみの男の客は、ていねいに頭を下げた。 「はい、これが契約書で、こっちがカギ。向こうに着いたら、ちゃんと管理人さんにあい さつしてくださいよ」 「分かりました」 客は引き戸を開けて外に出た。空は、朝から灰色の雲がどんより垂れ込めている。その雲が厚みを増した感じで、地鳴りのような低い音が響いた。 「やあ、一雨来そうですよ」  「あれ?」 一刻館の開かずの間・三号室の扉が開いているのに気付いて、一の瀬はけげんな顔をした。興味しんしんで中を覗くと、響子が畳にぞうきんをかけていた。 「誰か来るのかい」 「え? ええ」 「どんな人?」 「三瓶さんって男の方らしいですけど」 「何してる人?」 「さあ……」 一の瀬はきょとんとした。 「分かんないのかい」 「急な話でしたから……」 不満げな顔をした一の瀬は、しかしそこでにやりと笑った。 「まあ、何でもいいや。歓迎会やらなくっちゃ。五代くーん!」 叫びながら、一の瀬は普段とは別人のような速さで飛び出していった。 「あ、ちょっと、一の瀬さん……!」 迷惑をかけちゃいけないと言おうとしたのだが、一の瀬が聞いてるはずもなかった。 (……まあ、いいか。止めても聞かない人たちだから) くすっと笑って、響子は外を見た。 「……あ。雨……」 もう降り出すか、まだもつかと気にしていたのだが、とうとう降り出してしまった。 「いけない、洗濯物!」  夜になっても、雨は降り続いていた。  響子はアイロンかけを始めた。そこへ、待ちくたびれた一の瀬たちがどかどかと上がり込んできた。珍しく二階堂もその中にいた。 「来ないじゃないさあ」 「ほんとに……荷物は、来てるんですけど」 響子は傍らの段ボール箱を見た。 「たったそれだけ?」 「ええ」 「……恐れをなして、逃げたとか」 「何から」 うっかり口を滑らせた五代は、朱美ににらまれた。 「さ、さあ……」 「何の連絡もないのが、気になりますわね……」 「こりゃ、空振りだったかねえ」 一の瀬が肩を落とした。 「惜しいことをしましたなあ。二階堂君に続いて、いよいよ一刻館がにぎやかになると思 ってましたのに」 「……そんな、もうだめになったみたいな」 そのとき、雨の音の中に惣一郎の吠え声がし、続いて玄関の戸が開く音がした。 「来たっ!!」 住人たちはいっせいに玄関に走った。だが、その期待は見事に裏切られた。時ならぬ出迎えに目を丸くしてくつぬぎに立ち尽くしていたのは、一の瀬の亭主だったからだった。 「……あーあ」 「寝るとしますか」 「お休みなさい」 住人たちはばらばらと部屋に散っていって、後には一の瀬氏一人が、わけも分からずくつぬぎにたたずんでいた。 「あの……」 「早く上がりなよ。ご飯まだなんだろ?」 一の瀬があきれ顔で言った。なぜあきれられるのかも、一の瀬氏には分からなかった。 「はあ……」  翌日の朝、雨は上がっていた。  響子は石段を掃いていた。地面がまだ湿っているから掃き掃除には向いていないのだが、そんな日でも響子は掃除を欠かしたことはない。時々、ほうきにからみつくごみや落ち葉をつっかけで踏んで取りながら、響子はざっざっと石段を掃いていた。 「ふああ……」 思わずあくびが出た。今朝は、さわやかな目覚めではなかった。それは言うまでもなく、ついに姿を見せなかった新住人のことが、気にかかっていたからだった。  涙にうるんだ目に、門先に立つ人の姿が映った。響子は二、三度目をしばたたいてから、その人を見つめた。四十がらみのロングコートを着た男が、アタッシェケースを下げて、こちらに歩いてきた。 「おはようございます」 「……あ、はあ」 響子はけげんな顔をした。 「今度こちらにお世話になります、三瓶太介と申します」 「……あ、ああ、あなたが三瓶さんでしたか」 響子は赤面した。セールスマンにしては朝早いわね、などと考えていたのである。   2  雨が降ってきたんで、来そびれたあ?」 一の瀬の大声に、数人がラケットを振る手を止めてこちらを見た。 「ええ、そう言ってました」 「一晩中、どこで何してたんだろうねえ」 「さあ」 そこへ三鷹が、新入会員のコーチを一方的に中止してやってきた。 「音無さん、ちょっと小耳にはさんだんですが、何でも新しい入居者があったとか」 一の瀬は三鷹の顔をじいっと見つめてから、にかあっと笑った。 「安心していいよ。あんたの恋敵(ライバル)には、どう転んだってなりそうにないんだから」 「なっ、何ですかそれは。僕は別に、そんな……いや、別に、いーんですけどね。おっと、コーチの続きをしなきゃ」 そう言うと、わざとらしく腕を頭の後ろで組んで、三鷹は去っていった。 「うふ、気にしちゃってえ」 「三瓶さんて、テニスプレーヤーの方なんでしょうか」 「……」  「引っ越し荷物が段ボール一つ?」 こずえもとんきょうな声をあげた。 「うん、ほかには何も来ていないんだ。あとは、本人が持っていたアタッシェケースだけ で」 とにかく、五代にとってもわけの分からない人間なのだ。 「へえ、変わってるんだ。どんな人か、会ってみたい気もするな」 「どうして?」 「どうしてって……だって、もしその人がずっと一刻館にいて、五代さんもやっぱり一刻 館にいて、それで、もし、あたしたちが……」 「あ、こずえちゃん、ところでさ……」 五代はあわてて話をそらそうとした。こんなことで深みにはめられてはかなわないと思ったからだ。だが、そうするまでもなかった。三瓶太介その人が、向こうから歩いてきたからだった。 「やあ、今朝がたはどうも」 三瓶のあいさつに、五代は軽く頭を下げただけで応えた。響子にたたき起こされてあいさつをしたときもそうだったが、どうも気安く口をきく雰囲気ではないのだ。  三瓶は全く歩調を変えずに、二人の脇を通り過ぎた。こずえのことを聞こうともしなかった。 「……あれ?」 「あれ」 五代とこずえは、複雑な表情をした。  「カンパーイ!!」 一日順延の歓迎会が、幕を開けた。昨日の酒が残っている上にまた買い足したものだから、それだけで五号室は足の踏み場もないありさまだった。 「あたしゃうれしいっ! 一刻館がにぎやかになるのはいいことだよ」 「これで全室ふさがりましたなあ」 「三瓶さん、団結してこの人たちに立ち向かいましょうね」 「何が言いたいのさ、二階堂君は。まあいいや、さ、一気飲み、一気飲み」 「そーそー、つぶれたってみんなで介抱したげるからー」 「いや、私はどうも……」 言いながら、三瓶はちびりとビールを含んだ。どうもそれが、彼の飲み方らしかった。 「何言ってんのよー、さ、飲んで飲んで」 「一気飲み、一気飲み」 それでも渋る三瓶に、五代が忠告した。 「この人たちに逆らうと、えらい目にあいますよ」 「あー、どういう意味だい」 みんながどっと笑った。三瓶はその雰囲気を楽しむように、もう一口ビールを含んだ。そうしながら、彼はあいている左手で、ゆかたの袖をぴっと引き上げた。だが袖はすぐずるりと落ち、三瓶はまたそれを引き上げた。 「それ、袖が長いんじゃありません?」 「ええ。その代わりに……」 三瓶は立ち上がって見せた。裾は、すねの半分ほどしかなかった。 「丈が短いんです」 ほお、というようなため息がもれた。 「よっぽど気に入ってるんですね、そんなになるまで着るなんて」 「まさか、亡くなった奥さんの手縫いだとか」 四谷の言葉に、三瓶の顔から笑みが消えた。 「……まあ、そんなとこです」 一瞬、皆が黙り込んだ。 「……いやあ、こりゃ失礼。ほんの冗談のつもりだったんですが……」 四谷が珍しくしおらしい顔をして、わびた。 「いえ、気にしないでください。昔のことですから」 取りなしてから、三瓶はこくっと喉を鳴らしてビールを飲んだ。響子はその横顔を見つめていた。 (……私と、同じなんだ……) そう思うと、急に親近感が湧いてきた。  だが、ふと我に返って見渡すと、みんな押し黙って、グラスをもてあそんだり、スルメをかんだりしているのだった。それは、一刻館の宴会においては、異常なことでしかなかった。 「み、みなさんどうしたんです? もっといつもみたいに騒げばいいのに」 「あ、それもそうだね」 「そーゆー管理人さんだって、全然飲んでないじゃなーい。もっと飲みなさいよー」 「よーし、じゃああたしも今日は羽目を外しちゃおうかな」 わざわざメンバーをあおった上に自分まで調子に乗ってみせたのは、ひとえに三瓶への気遣いだった。 「この人が羽目を外すとこわいんですよ」 四谷が口を出す。 「……どういう意味ですか」 「そうでしょ、五代君」 「な、何で僕に同意を求めるんです」 爆笑の渦が起こって、ようやくいつものノリが戻ってきた。  2 惣一郎の蜃気楼(しんきろう)   1  惣一郎が、なにかやかましく吠えている。  響子は玄関に行った。三和土に三瓶が座り込んでいて、惣一郎は彼にじゃれかかって手にした紙袋をねだっていた。 「よしよし、これが欲しいのかい、待ってなさい」 「あ、だめです、惣一郎さん!!」 三瓶が紙袋に手を突っ込んだので、響子はあわてて止めに入った。惣一郎を抱えて引き離したが、ズボンはすでに足跡だらけだった。 「すみません、ズボン汚しちゃって」 「いやあ、いいんですよ。それより、メロンパンがあるんですが、よかったら召し上がり ませんか」 「は?」 唐突にそんなことを言われたので、一瞬からかわれているのかと響子は思った。三瓶は紙袋からそれを出して見せた。 「メロンパン。本当は、甘食が欲しかったんですけどね」 「甘食、無かったんですか」 しゃべりながら、響子も座り込んだ。 「はい、置いてないと言われました」 「そうですか」 三瓶は、メロンパンの一つを響子に渡した。 「どうぞ。私、あまり食欲がないんです。どうもお酒とは相性が悪いみたいで……」 「まあ」 三瓶はもう一つメロンパンを出すと、自分は食べずに、小さくちぎって惣一郎に与えた。  響子はそれを見ながら、さっくりとメロンパンをかじった。ふんわりした甘さが、口いっぱいに広がった。 「三瓶って、けっこう変わった名字ですね」 響子は前から思っていたことを口にした。 「ええ。島根県の方に、同じ名前の山があるみたいですね」 それから、三瓶はまるで見当違いのようなことを聞いた。 「小学校の時、地図探しってやりませんでしたか」 「は?」 響子はまたきょとんとした。 「ほら、誰かが地図帳の中の地名を言って、それをみんなで探すやつ」 「ああ、やりました、やりました」 「小五の時にそれをやってて、その三瓶山が見つかってしまいましてね。そのあと、からかわれ通しでした」 「まあ」 響子はくすくす笑った。  三瓶が、惣一郎の頭をなぜた。何となくその手先を見た響子は、はっとした。 「あ、そのボタン」 袖のボタンの一つが、もうぶらぶらになっていて、糸一本でつながっているようなありさまだった。 「いや、どうも無精者で」 「あの、それあたしが直します。パンのお礼に」 「いやあ、かえってすみませんな」 「そんな、こちらこそズボン汚しちゃって……」 響子は思わず口をつぐんだ。身を乗り出した瞬間、思いがけず三瓶の顔が近くにあったからだった。そのまなざしを間近に見たとき、響子は思わずどきりとした。 ──それは、ある人のまなざしに、あまりにもそっくりだった。 「何してんのさ、玄関先で」 一の瀬の声が、危うく回想に沈もうとする響子を引き戻した。  一の瀬は、響子のボタン付けを眺めていた。  ボタン付けにも名人芸というものがあるのだろうが、あるとすれば、響子の手際はかなりそれに近いだろう。針の運びに無駄がない。今はゆっくりやっているが、急げと言われれば半分の時間でできるかもしれない。  布地の方も左手で巧みに動かし、すいすいと針を往復させながら、響子はくすりと笑った。 「何なのさ、一体」 タバコの煙をぽっと吐いて、一の瀬は聞いた。響子はくるくるっと足巻きを施しながら、つぶやくように答えた。 「あの人、似てるんですよね。どこがと言うわけじゃないけど……何となく、雰囲気が……」 「誰に?」 玉止めをつくると、響子は糸を歯にかけて、ぷつんと切った。 「……惣一郎さんに」 ──一の瀬は口を半開きにして、響子を見つめた。  それは、響子にとって最大級の賛辞であるはずだった。いや、ことによっては、それ以上の感情すら表しかねない…… (まさか……いや、でも……)  タバコの灰が一センチほどの長さに延び、耐えきれずにぼそりとテーブルクロスの上に落ちた。 「あ、一の瀬さんたら」 「……あ、ああごめんよ」  「三瓶さん」 「はい」 静かな返事が返ってきた。響子は遠慮がちに扉を開けた。 「ああ、管理人さん」 三瓶は、アタッシェケースを机代わりにして、何やら書類を書いていた。 「あの、コートのボタン付け、終わりましたので」 「あ、どうもすいませんでした」 言いながら、三瓶はさりげなく書類を裏返した。 「あの、こちらにいらっしゃってから三日になりますけど、なにか、困ったこととかあり ませんか? 宴会の音がうるさいとか……」 響子は天井を見上げた。折しも五号室で、例のごとくどんちゃん騒ぎが始まっている。 「いやあ、気になりませんよ。どんなにうるさくても眠れる性質(たち)ですから」 「ですけど、毎晩毎晩歓迎会で、お疲れでしょう? お酒もそんなにお強くないのに……」 「いやあ……」 力のない否定は、響子の言葉を認めたも同じだった。 「やっぱり。無理強いしないように、ちゃんと言っとかなきゃ」 「いや、いいんです」 「でも……」 「私、うれしいんです。しんどいですけど……でも、いろんな所に住んできましたけど、こんなに歓迎してもらったのは初めてなんです」 「自分たちが、騒ぎたいだけなんですけどね」 「それでも、うれしいもんですよ。私の居場所をつくってくれて、私のために乾杯してく れて。それだけで、うれしいですよ」 「……そうですね」 自分がここに来たときのことを、響子は思い出した。変人ばかりで、これからどうなるんだろうと思ったが、その中に溶け込むのに半日もかからなかった。孤独になるひまさえなかったのが、今となってはありがたいような気がしていた。 「一つとや、一夜明ければにぎやかに……」 三瓶が、低い声でふと口ずさんだ。 「は?」 「ほら、二階でみなさんが歌ってる歌。数え歌じゃないですか」 「ああ、そういえば」 酒のせいで節も音程もめちゃめちゃだが、確かにそれは響子も小さい頃に教わった、数え歌だった。 「二つとや、双葉の松は、色ようて、色ようて……」 「三界松は、春日山、春日山……」 いつの間にか、二階の歌声に合わせて、響子たちも声をそろえて歌い出した。 ──三つとや、みなさんこの日は、らく遊び、らく遊び   春先小窓で、羽根をつく、羽根をつく ──四つとや、吉原女郎衆は、手まりつく、手まりつく   手まりの拍子は、おもしろい、おもしろい …… 「七つとや」のあたりで、二階の歌声はめちゃくちゃになって、ばらけてしまった。響子たちはやっと我に返って、顔を見合わせた。  響子はくすくす笑い出した。三瓶もつられて笑い出した。いい年をして、まじめな顔でわらべうたを歌っている自分たちが、おかしかったのである。   2  夕暮れの公園で、三瓶は一人ベンチに座っていた。  夕日を見つめて、心静かに思索にふける……かと思えば、さにあらず。三瓶はおもむろに靴を脱ぎ、靴下も脱いで、水虫の薬を塗り出した。  水虫の薬なんてものは、どこの製品を使おうが、かゆみ止めしか入ってないんじゃないかと思うほど、効きが悪い。かくして今時分のように寒さがゆるみ始めると、水虫は今年もよろしくとばかりに目を覚ますのだ。  足元を歩き回っていたハトが、ぱっと飛び立った。 「水虫は、今のうちに治しておかないと、暖かくなってから大変ですからなあ」 三瓶が目を上げると、いつの間に来ていたのか、隣に四谷が座っていた。 「いやあ、こりゃどうも。えっと、確か……」 「四谷です。お仕事の、お帰りですかな」 「いやあ……」 あいまいな返事の中に否定のニュアンスをにじませつつ、三瓶は空を見上げた。 「こんな風の暖かな日は、仕事をしてもつまらんです」 「やっぱり、そう思いますか」 「はい」 答えると、三瓶はアタッシェケースをぱちんと開けて、サクマドロップの袋を出した。 「どうぞ」 「あ、これは」 四谷は帽子に手をやってから、ドロップの一つをつまみ出して、口に放り込んだ。 「四谷さんは、一刻館は長いんですか」 「ほくら(そくざ)には、おもいらへないほろ(だせないほど)」 「よそに移る気には、なれませんか」 四谷は答えずに、逆に三瓶に反問した。 「……あなたも人が悪い」 「あ?」 「あなた、数あるアパートの中から、どうして一刻館を選んだんです」 「いやあ、こりゃどうも……うーん……」 それから、三瓶は冗談ともまじめともつかぬ口調で言った。 「匂い、ですかな」 「は?」 「暖かな、春の匂いにひかれて」 答えになっていないようで、何となく共感できる返事だった。四谷は三瓶と顔を見合わせて、くっくっと笑い出した。  「三瓶さん!」 そば屋の店先で四谷と別れた三瓶を、響子が追いかけてきた。 「やあ、管理人さん」 「今、四谷さんとご一緒だったでしょう?」 「はい、そばを一緒にと誘われまして」 「え、四谷さんがお勘定したんですか?」 「あ? ……あ、いえ」 そう言って、三瓶は笑った。 「……やっぱり。四谷さん、絶対に自分からお金払おうとしないんですから、気をつけて下さいね」 「私は、かまいませんよ。それより、この辺にスーパーはありませんか」 「お買い物ですか?」 「ええ、小さいなべとやかんをね」 「それでしたら、線路の向こうの金物屋さんの方が安いですよ。私も一緒に……あ」 踏切を目前にして、警報機が鳴り出した。 「渡っちゃいましょうか」 「あ、はあ」 響子たちは下りかけた遮断機の下をくぐって、通り抜けた。線路の真ん中で住人の一人とすれ違ったのだが、二人は全く気付かなかった。   *  電車の起こす風が、立ち尽くす五代の前髪を巻き上げた。 (今の、管理人さんと、三瓶さん……) 二人が一緒にいたのは、別に不思議でもない。買い物の途中でばったり会って、知っている店でも案内しているのだろう。だが……  五代が二人に気付いて振り向いた瞬間、響子が三瓶を向いて笑った。次の瞬間には電車が視界をふさいだのだが、その笑顔はフラッシュバックのように五代の目に焼き付いた。 (あれは……) 気を許した笑顔だった。引っ越してきてまだ四日目の男に、なぜそんな笑顔を見せるのか。思わずやったことにしたって……  電車が走り去って、目の前が開(ひら)けた。五代は踏切の向こうをすかして見たが、響子と三瓶はもう人の波に姿を消していた。  ファン、ファーン! 五代の後ろで、道をふさがれたバスが警笛を鳴らした。  五代がトイレから戻ってくると、宴席は大騒ぎになっていた。 「あーあ、こぼしちゃった。ビール乱暴に注ぐから」 「なはははっ、ごめんよ」 「もう、一の瀬さんたら」 響子はふきんでゆかたにこぼれたビールをこすっていた。 「あの、大丈夫ですから、もう……」 「いけません、しみになっちゃいますから」 響子は真剣になって、こぼれた跡をこすっていた。 「管理人さんて、ほーんと世話女房タイプね」 その何の気ない一言に、五代はぎくりとした。響子の真剣な目に、夕方の笑顔がだぶった。 「五代君、何ぼーっとしてんのさ」 「え? あ、いや別に」 我に返ると、五代はドアを後ろ手に閉めた。 「さあ、飲むぞお!」 「なーに張り切ってんのよ」 「いーからいーから。さ、ビールちょうだい、ビール」 「わーったわーった、そうせかすな」 「まあいいじゃないさ、ヤケ酒でも何でも」   *  したたかに飲んだのに、その晩はほとんど眠れなかった。闇の中に踏み切り越しの響子の笑顔が何度も閃き、それに遅れてしみを拭く響子の目が浮かんでは消え、消えては浮かびする。その果てしない繰り返しの中で、寝ることも、起きて何かすることもできぬままに、五代はもがいていた。  だが、次の朝には、五代はさらなるショックを受けることになる。  「似てるんですか!? ……惣一郎さんに」 「雰囲気がね……らしいよ」 一の瀬のその一言で、気持ちのいい物干し台の日ざしが一気にうそ寒くなった。──だが同時に、何となく合点がいったのだった。 「あんたに言おうかどうしようか、迷ったんだけどねえ……うすうす感じてたんじゃないの?」 五代は黙っていた。それで、認めたようなものだった。惣一郎という固有名詞が与えられれば、疑問はあっさり解けてしまった。 「考えようによっちゃあ、三鷹さん以上のライバルになるかも知れないねえ……」 「ま、またあ」 「向こうに惣一郎さんの影を見ているとしたら、相手が悪過ぎる。どんな人だか、はっき りしないんだから。まあ、無理に張り合おうとしないで、しばらく様子を見るんだね」 五代は目を落とした。惣一郎のイメージをだぶらされた三瓶は、響子の中で惣一郎の生まれ変わりほどの力を持つかも知れない。まさか、そんな人間を相手にすることになるとは思わなかった。──かなうはずがないではないか。  洗い場の掃除を終えた響子が、戻ってきた。 「お二人で、何してるんですか?」 「ひなたぼっこ。あんたも混ざるかい」 「うふっ、もう」 軽くいなして、響子は降りていった。 「あら三瓶さん、お出かけですか。行ってらっしゃーい、お気をつけてー!」 響子の声は、はずんでいた。  「どーしたの五代君、いつにも増してクラいじゃない」 まるで悩みというものを知らないような、三鷹の脳天気な声は、五代が今一番聞きたくないものだった。 「ほっといてください」 「就職が決まらないせいかな。それとも、音無さんと何かあったの」 五代は一瞬ぎょっとしたが、 「……別に」 ぴしゃりとそう答えた。強がりではなかった。直接には、何もない。 「ふん、かわいげのない奴」 からかった相手に反抗されて、三鷹は機嫌をそこねる。いつもならそこで終わりのはずなのだが、三鷹はもう一度五代を呼び止めた。 「あー、ちょっと五代君」 「……何か用ですか」 「いや、あのさー、……例の新しい入居者だけど、どう?」 「どうって?」 「だから……その、ねえ」 三鷹は照れ笑いしてみせた。三鷹が何を聞きたがっているのかは五代にも分かったが、素直に答える気にはならなかった。 「……いい人ですよ」 惣一郎さんみたいな、という言葉は、口にしなかった。五代は歩き出した。 「あ、ちょっと、五代君! ねえ!」 五代はもう振り返らなかった。三鷹は今度こそ頭にきたようで、車に乗り込むとドアを乱暴に閉めて、エンジンを思いきりふかして発進した。  五代は、別に三鷹とケンカしたかったわけではなかった。今の五代が一番気にしていることに、無遠慮に触れた三鷹がいけなかったのだ。  五代は、三瓶と並んで歩いていた。  銭湯で、偶然一緒になったのだ。だが、五代は何か違和感を感じていた。こちらの行動を、全て三瓶にさとられているような気がするのだ。  それが思い過ごしだとしても、響子のことをどう思っているのか、それだけは確かめておきたかった。 「あの……」 「はい」 だが、問いかけておきながら、五代は頭の中でとっさに次の言葉をすり替えていた。 「あ……こ、今晩は暖かいですね」 「はあ」 答えを聞くのがこわかったのもある。だが、話の流れの中で、もし下手に響子の気持ちを知らせて、三瓶に響子を意識させたりすれば、それこそヤブヘビになってしまう。とっさにそのことに思い当たったからだった。 「不思議ですねえ」 五代の心の動きなど知らぬげに、三瓶は別の話を始めた。 「は?」 「一刻館の人たちって、なんだか家族みたいに思えるんです。……私のことをだれ一人詮索しないし、ずっと前から一緒に暮らしていたみたいにつきあってくれて……何というか、とても不思議です。とても、うれしいんですけどね……」 「けど?」 一刻館の灯りを前にして、五代は先をせかした。だが、三瓶が口を開く前に、惣一郎がバカみたいに吠えかかった。 「ああ、ただいま惣一郎さん。ごめんごめん、おみやげないんだよ」 エサももらえずに飢え死にすりゃいいんだ、バカ犬め、と五代は心の中で毒づいた。 「あら、ご一緒だったんですか」 惣一郎の声を聞いて、響子が出てきた。 「ええ、偶然」 「寒かったでしょう。甘酒があるんですよ」 「……ね」 三瓶は五代を見て笑った。 「そうですね」 「何ですか?」 響子の質問を、二人はわざと聞かないふりをした。 「いただきましょうか、甘酒」 「はい」 「どうぞ。味の保証はありませんよ」 「そんな、管理人さんの作った甘酒なら、ね」 五代の言葉に、三人とも声をそろえて笑った。五代も一瞬悩みを忘れたのだが、そのとき恐ろしい疑問にぶつかった。 (甘酒、誰のために作ったんだろ) 五代のためではなく、三瓶のためではないのか。五代は、たまたま一緒に帰ってきたから誘われただけなのではないか。  響子の笑い声が、急に遠く感じられた。  3 嵐の襲来   1  窓から差す日差しが、床にくっきりと影を作っている。急行電車は単調に走り続け、ほどよく効いた暖房と相まって、立っていても眠くなるような雰囲気だった。 「……それでね、その安全地帯にね、『この安全地帯は危険です』って看板が出たんだって。だったら安全地帯じゃないじゃない。おっかしなの。……」 こずえには悪かったが、今の五代にとって、こずえのおしゃべりはつけっ放しのテレビと同じだった。モーターの音や、妙につぶした声の車内放送などがほどよくミックスされた環境の中で、五代は物思いにふけっていた。いや、ぼおっとしながらとりとめもない考えが浮かんでは消えするのを感じていたという方が適当だったろう。 「……五代さん、どうしたの?」 「え?」 それと同時に電車がブレーキをかけ、五代はがくんと後ろにのめった。 「な、なは、ごめん。考え事してたから」 それを聞いたとたん、こずえはなぜかはっと息をのんだ。 「……五代さん、かわいそう」 「へ?」 「あのうわさ、やっぱり本当だったんですね」 「……うわさ?」   *  響子のラリーを見ながら、何気なく三鷹は言った。 「音無さん、いきいきしてますね」 ポーカーフェイスの下手な響子は、何かあるとすぐ顔に出る。響子の変化を、三鷹はあっさり見破った。 「やっぱり、そう思うかい」 「やっぱり?」 一の瀬が何気なくつけた一言に、三鷹は顔色を変えた。 「やっぱりって、どういう意味です」 「……何、取り乱してんのさ」 三鷹はしゃがむと、一の瀬の肩をつかみ、目をまっすぐ見据えた。 「いいんです、隠さず言って下さい。あのうわさは、本当なんですか」 「……うわさ?」   *  「何よ、それ」 反問した朱美を、マスターはむしろ意外そうに見つめた。 「知らないの? みんな言ってるよ」 「みんなって、誰よ」 「だから、うちの常連さんとか……でも、朱美ちゃんが知らないなら、きっとただのデマ だね」 マスターはそう言ったが、朱美はそれを半分聞き流していた。そしてつけたばかりのタバコの火をもみ消すと、スツールを立った。 「あ、あ、朱美ちゃん、どこ行くの? ちょっと、仕事! ……あら。」  「管理人さん、妙なうわさ聞い……た?」 朱美が管理人室に飛び込んできた時、部屋の中にはすでに一の瀬と五代が顔をそろえていた。 「ひょっとして、あんたたちも?」 「ああ。五代君も聞かされてきたとこだよ」 一の瀬と響子が買い物を取りやめて一刻館に戻ってくると間もなく、こずえを電車の中にほっぽって五代が帰ってきた。そしてそこに、無断退勤した朱美が飛び込んできたのだった。 「朱美さんが聞いたのは、どんな話でした?」 「一刻館が取り壊しになる」 「……みんな、同じですね」 それは住人たちにとって、死刑宣告にも等しい言葉だった。重い沈黙がその場を支配した。 「……で、おばさん。さっきの、三鷹さんが言ってた話ってのは」 「あれは、三鷹さんがつけ加えた憶測さ」 「どんな」 「管理人さんが三瓶さんと再婚する」 五代の口から、「ギ」というような声がもれた。三人がいっせいに響子を見た。 「そんなことありません!」 赤くなりながら、響子は抗弁した。 「……根も葉もないうわさです。三鷹さん、意外にそそっかしいんだから」 朱美の分の茶を注ぎながら、響子はいかにもあきれたという顔をした。 「でも変ですね、住人だけが知らないなんて」 しかも何の前触れもなく、同時多発的にうわさが流れ出したのが、いっそう不気味だった。  電話が、つながらない。受話器から流れる無機的な信号音が、取り囲む者の耳にもかすかに伝わって、不安を増幅する。  響子が、ため息をついて受話器を置いた。 「……だめです」 「まだ話し中かい」 四谷はまだ戻っていなかった。二階堂と三瓶が帰ってきてからとりあえず、音無の家に問い合わせようということになったのだが、何度かけてみてもつながらない。 「ったく、こんな大事なときに何やってんだい」 一の瀬がどかりといらだたしげに座り込んだとき、廊下で賢太郎の笑い声がした。 「……だって、郁子ちゃんだって知らなかったんじゃない」 「へ?」 四人は廊下に飛び出した。共同電話の前で、賢太郎が目を丸くした。 「郁子ちゃん家(ち)にかけてんのかい! ちょっと貸しな!!」 一の瀬は受話器をひったくった。 「郁子ちゃんかい! おじいちゃん出しとくれ! ……え? 何だって!? だからおじい ちゃんを……」 「おじいちゃん、いないよ」 賢太郎の方がずっと冷静だった。 「どうしてだい!」 「学校の理事会の旅行で、香港に行ったって」 「な……」 四人は絶句した。 「それで、いつ帰ってくんのよ」 「あさっての朝だって」 「そんな……」 一の瀬たちは、いよいよ不安の色を濃くした。それを見て、賢太郎は元気づけるように明るい声をかけた。 「母ちゃん。郁子ちゃん家じゃ、このアパートをこわす話なんてしてないってよ」 だが、四人の顔は晴れぬままだった。みんなが喜ぶに違いないと思っていたのだろう、賢太郎がけげんそうな顔をした。  議論は堂々めぐりを繰り返していた。そのうち四谷も帰ってきたが、だからといって話が進展したわけでもなかった。 「とにかくですねえ、お義父(とう)様がお帰りにならないと」 「それまで、黙って待ってろっていうのかい」 「だって……」 「帰ってきたとたん、『その通りだよ』なーんて言われたらどうすんの」 朱美はじつに上手に周介の声を真似て見せた。 「残念です。あの大家さんだけは、そんな人じゃないと信じてたのですが」 「まだ、決まったわけじゃ……」 響子の声が小さくなった。彼女ですら、周介を信じ切れないでいた。 「そうですよ。郁子ちゃんの両親だって、そんなこと知らないって言ってるんだから」 響子の弁護に回った五代は、たちまち猛反撃を食らった。 「じいさんが、陰で動いてるかも知れないじゃないか」 「否定する証拠は、ありませんなあ」 「まさか……」 「よくそう落ちついていられるわねえ」 朱美がぐいと顔を近づけた。 「一刻館がなくなって一番困るの、あんたじゃない」 「う……」 「あんたと管理人さんのつながりは、一刻館だけなんだよ」 てきめんに、五代は黙ってしまった。 「まー、二階堂君が落ちついてんのは分かるけどさ」 「一刻館がつぶれたって、何にも困ることないもんね」 「何言ってんですか。うちの母、オンボロアパートに住んで生活がすさんでるみたいだって、鎌倉のおじさん家(ち)に下宿しろとか、実家に戻れとか、最近うるさいんですから。ここで一刻館がつぶれちゃったら、何言われるかわかんないんですよ」 「……そういう苦労もあるんですなあ」  一の瀬が、重い空気を振り払うように茶碗酒をあおった。 「とにかくさ、手分けしてうわさの出所を突き止めようじゃないか」 「はーい、さんせーい」 「それしか、ないですね」 ちゃらんぽらんな住人が、このときばかりはすばやく結束した。事情はそれぞれ違え、一刻館がなくなれば誰しも困るのだ。 「三瓶さん!」 一の瀬がどなった。 「あ」 「あ、じゃないよ。あんたも協力してよ」 「はあ……」 なぜか、三瓶の返事は煮え切らなかった。 「すみませんね、越してきたばかりなのに、変なことになって」 「いえ……管理人さんの方こそ、さぞご心配でしょう」 「え」 三瓶と響子、そして五代の間で、複雑な空気が流れた。  響子は、三瓶とのうわさを否定した。今の時点では、響子の言うとおりだろう。だが、これから先もそのうわさがうわさのままであり続けるかどうか、五代は疑わしく思った。   2  第一回中間報告  会場 茶々丸  出席者 管理人、一の瀬、四谷、五代、朱美 「……あたしらからは、有効な報告はなし。で、管理人さんからは?」 「不動産屋さんも、取り壊すなんて話は聞いてないそうです。ただ……」 「ただ?」 「そのときに聞いたんですけど……一刻館から南秋津の駅に向かって下ったあたりに、似たような感じのアパートがあるでしょう」 「ああ、そう言やあ」 「あっちの方が断然新しいけどね」 「そこの大家さんが去年亡くなられて、息子さんがそこを相続したらしいんです。そしたら、アパートをつぶしてマンションでも建てるか、って言い出したんですって」 「……すると、一刻館を取り壊すってうわさは、それを勘違いしたってわけか」 ほっとした空気が流れかけたとたん、 「おかしいですなあ」 それまで黙っていた四谷が、おもむろに口を開いた。 「私が得た情報によれば、解体されるのは間違いなく、一刻館」 「……それ、誰から聞いたんだい」 「仕事仲間です」 「何の」 「それだけは教えたげません!! ……でも、確かな情報です」 「そういえば、ここに来るお客さんも、みんな一刻館って言ってるよ。それ以外の名前は聞いてない」 マスターも口を添えた。 「……一体全体、何がどうなってるんだよ」 一の瀬の疑問は、全員の疑問だった。そして、誰も答えることはできなかった。  重苦しい空気が流れた。その重みに耐えかねたように、四人がいっせいにため息をついた。  コーヒーが運ばれてくるまで、何となく二人とも黙っていた。 「……この前は、何か、すみませんでした」 「そんなことは構わんが……話って、あのうわさのことかい」 「はい。三鷹さんは、どこでそのうわさを聞いたんですか」 八方手づまりである以上、五代だって聞く相手の好き嫌いを言ってられない。三鷹にしても事態の重大さは理解していた。 「あれはねえ。ガソリンスタンドで、隣の車の客と店員が話してるのを聞いたんだよ」 「はっきり、一刻館だと言ったんですか」 「ああ。一刻館が取り壊されるらしいって客が言って、店員も知った顔で、あの土地を売れば軽く一億は越すだろうって話してたよ。やっぱり、条件はいいからね」 「そうですか……」 都心から三十分という場所に、こんな不経済な建物が残っていること自体が、東京では許されないのかも知れない。 「うわさ、本当なの?」 「それが……みんな、確かめようがなくて、困ってるんです」 「で……」 三鷹は複雑な表情をした。 「その……もう一つのうわさの方は」 「は?」 三鷹は人目を気にしつつ、顔を寄せた。 「お、音無さんの……あの(再婚)話」 「ああ。それなら、全くのでたらめ……と、言いたいところなんですが」 三鷹の表情が、疑いから期待、喜びから落胆へと、五代の言葉につれて見事に変化した。 「やっぱり、本当なんだ」 「いえ、そんな具体的な話じゃないんです。ただ……」 「ただ?」 三鷹は性急に先をせかした。 「……あの人、惣一郎さんに似てるんです」 三鷹はうぐっというような声を出した。その顔はひきつったまま、なかなか元に戻らなかった。三鷹にとっても、その名はやはり禁句だった。 「……じゃあ、僕と五代君が束になっても、かなわないな」 「……管理人さんが、その気なら」  4 降りやまぬ雨   1  「はあ……」 町を見下ろしながら、五代はとぼり、とぼりと時計坂を登っていた。就職活動もしなければいけないのに、まるで身が入らなかった。  三鷹なら何か知っているかも知れないと期待したのだが、あては外れた。三鷹だけではない。うわさを話す人々は、それがさも確かなことのように話しているくせに、いざ問いつめてみると、みんな又聞きでしか話を聞いていないのだ。  それに……響子のことだって、三鷹の言う通りでしかなかった。あの三鷹が、惣一郎と聞いたとたんにあっさり白旗をあげた。真剣を差した相手に竹刀で立ち向かうようなものだ、当然のことなのだが、三鷹に一も二もなく降参されたのでは、五代にはあがく当てさえなくなってしまう。 「あーあ……」 とぼり、とぼりと石段を上って、五代は玄関の扉を押し明けた。きいっ、きいっと扉がきしんで、ラッチがはまるときの弾みでばしゃんとガラスが揺れる。聞き慣れたその音が、妙に頼りなく聞こえた。  靴ひもを解きかけて、五代はふと耳を澄ませた。三号室から話し声がする。……響子の声だ。 「……それじゃ」 五代が立ち上がったとき、ドアが開いて響子が出てきた。 「あら五代さん、お帰りなさい」 「……ただいま」 答えてから、五代は響子が手にしている大ぶりの紙包みに眼を止めた。 「このメロン、三瓶さんからみなさんへって。お客さんが持ってきたんだそうですよ」 「お客さん!?」 「ええ。後でいただきましょうね」 無邪気に言って、響子は部屋に帰っていった。 (……うそつけ!) 誰がこんなボロアパートに客を呼んだりするものか。極貧の五代だって駅前の喫茶店を使うのだ。 (見えすいた芝居しやがって) 響子を引っかけようたってそうはさせないぞ、とばかりに三号室の戸をにらみつけたとき、 電話がかかってきた。 「あ、僕出ます」 響子が部屋から顔を出したのを手まねで止めて、五代は受話器を取った。「すいません」と一声言って、響子は戸を閉めた。 「はい、一刻館……あ、こずえちゃん?」 反射的に声をひそめて管理人室の方を見てしまうのは、五代の悲しい習性だった。  「ドリームタウンって会社、知ってます?」 五代が席に座るなり、こずえは前置きもなしにそう言った。 「……何、それ」 「不動産会社らしいんです。あたしも詳しいことは知らないんですけど」 「それで?」 「新宿三丁目にそこの本社があるんですけど、あの三瓶って人、よくそこに出入りしてるんですよね」 「それ、本当?」 五代の声が大きくなった。 「ええ、確かに三瓶さんでしたよ」 思ってもみない言葉だった。だが、もしこずえの言う通りなら、不気味なうわさの謎が一気に解けることになる。すぐ出ていきますよと言わんばかりの荷物の少なさ、四谷でもあるまいに仕事先も分からず、一方でこっそり不動産会社に出入りしている。疑わしいどころではない。 「……何でそれが分かったかって言うと、そこの向かいにすっごくいい喫茶店があって、友達とよく行くんです。チーズケーキがおいしいんですよ。今度一緒に行きましょうね」 こずえのおしゃべりを聞き流して、五代は席を立った。 「ごめん、急用思い出しちゃった。悪いけど、これで」 「あ、五代さん!」 こずえが止める間もあらばこそ、五代はさっさと勘定を済ませて店を出てしまった。そして電話ボックスを見つけると、中に入って手帳を繰った。そして番号の一つをプッシュした。一度もかけたことがないし、強いてかけたい相手でもなかったが、なぜか番号だけはメモってあった。  コール音が四回鳴って、相手が出た。 「はい、三鷹です」  不動産会社「ドリームタウン」の本社は、丸の内線の新宿御苑前から、少し西に戻ったあたりにあった。雑居ビルの二フロアほどを使っているだけだが、それでも一階部分を占めているのだからそれなりの規模はあるのだろう。  三鷹のシルビアの助手席に身を沈めて、そんなことを考えながら、五代は三鷹が戻るのを待っていた。  ガラス戸を開けて、三鷹が出てきた。そして、五代の方を向いて手を振ってみせた。「はずれ」の意味である。だが、三鷹の方に向かって歩いていく中年の男を見つけたとき、五代の肝っ玉はのどのあたりまで飛び上がった。三鷹の脇をすり抜けて会社に入っていくその男こそ、三号室の住人ではないか!  五代は必死で手を振った。口をぱくぱくさせて、何とか意志を伝えようとした。だが三鷹には分からなかったらしい。けげんな顔をして車に戻ってきた。 「何をやっとるんだ、君は」 まだ二、三回口を動かしてから、やっと五代はしゃべりだした。 「い、今、入り口ですれ違った人……」 「ああ」 「あれ、三瓶さんです」 「何い!?」 大声をあげてから、三鷹はあわててあたりを見回した。 「三鷹さん、早く車出して下さいよ!」 「わ、分かった」 三鷹は彼らしくないあわてぶりでエンジンをかけると、二速発進で車線にすっ飛び出した。 「こずえちゃんの言ってたこと、本当だったんだな」 「ええ……で、どうでした、あの会社」 「ああ、何かうさんくさい感じだった。よその人間に内輪のことを知られたくないって雰 囲気が見え見えだったし、こっちが一言“時計坂”って言ったとたんに、その場にいた 全員がこっちを見て、話をしてた社員もますます口が堅くなってしまったからなあ」 「そうですか……じゃ、三瓶さんは、ドリームタウンの回し者……」 「ああ……」 心臓を締め上げるような緊張が、五代を包んだ。恋のライバルとしか思っていなかった三瓶が、まさか内応者だったとは。彼は、一刻館に運び込まれたトロイの木馬だったのだ。三鷹も同じ思いなのだろう、いつもとは打って変わって口数が少なかった。 「乗り込んでみましょうか、あの会社へ」 「え?」 「今なら、三瓶さんもいるし」 「……いや、それはまだ待った方がいいな。三瓶さんがドリームタウンと関係があるって証拠がないし、今行ったってうまく丸め込まれるだけだ。それより、まず音無さんに知らせなければ」 「……そうでしょうか」 今すぐ乗り込まない方がいいというのはともかく、響子に知らせるべきだという考えは、五代には納得できなかった。 「ああ。もしだまされかけているなら、そうした方がいい」 もしそう言ったところで、響子は納得するまい、と何となく五代は思った。響子の中の惣一郎がどれほどの力を持っているか、三鷹は五代ほど身にしみて分かっているわけではなさそうだった。  「まさか……」 コーヒースプーンが響子の手からこぼれ落ちて、かちゃんかちゃんとカップの中を踊った。 「それじゃ、三瓶さんはその不動産会社に頼まれて、あんなうわさを流してるっていうんですか!?」 「そこまでは、まだ分かりません。でも、どこかで今度の騒ぎに関係してるのは、確かだと思います。そう考えると、話の筋が……」 「三瓶さんは、そんな人じゃありません!!」 ものすごい剣幕だった。三鷹は思わず身を引いたし、五代は飲みかけのコーヒーを吹いた。通りかかったウェイトレスが紅茶をひっくり返して、あわててカウンターに戻っていった。 「……あの人は、平気で人を裏切れるような、そんな人じゃありません」 「でも、現にあの会社に……」 「きっと、何か事情があるんです。あたしたちの誤解かも知れないし……」 いい方にとれば、響子の言う通りかも知れない。三瓶がドリームタウンの人間だという証拠は、何一つない。だが、それでいいのか。一刻館取り壊しのうわさは、すでに事実のごとく語られている。木馬が開いてしまってからでは、遅いのではないか。  響子が口を開いた。 「お話は分かりました。私から、直(じか)に聞いてみます」 「え!?」 さっき紅茶をこぼしたウェイトレスが、ぎょっとして二人を見た。 「大丈夫ですよ、これでも管理人なんですよ。うそぐらい見抜けます」 二人の顔に現れた不安に答えるように、響子は自信たっぷりに言った。だが、五代も三鷹も、その自信が世間知らずゆえの自信ではないかと疑っていた。 (響子さんは、本気で人にだまされたことはあるまい) けれども、それは口には出せなかった。それ以上響子の心に踏み込むことはできなかった。 「……そうですか……」 不承不承に、三鷹は言った。響子はにっこり笑った。 「じゃ、それまで、他の住人のみなさんには内緒にしてて下さいね」 二人はうなずいた。結局、二人とも響子には逆らえないのだった。   *  「何だあ、音無さんは惣一郎さんに似てるやつなら、誰でも無条件に信用するのかあ!?」 「おれに聞かんで下さい!!」   2  五代はもう三十分、犬小屋の前で惣一郎の相手をしていた。  響子に事情を聞かせるなんて、とんでもないことだ。心の一番深いところで相手を信用してしまっているはずの響子に、うそが見抜けるはずがない。だまして下さいと言っているようなものだ。 (その前に、おれが化けの皮をはがしてやる) 足音に、五代は顔を上げた。だが、帰ってきたのは賢太郎だった。 「ただいま。何やってんの?」 「ん、ああ……ちょっと、三瓶さんに話があって」 「ふーん」 賢太郎はそう言っただけで、部屋に戻ろうとした。だが、玄関の前で立ち止まって、振り向いた。 「お兄ちゃん」 「ん?」 「あのうわさ、絶対うそだよね」 五代はことさらに笑ってみせた。 「安心しろよ。郁子ちゃんのおじいさんが、そんなひどいことするわけないだろ」 その一言で、賢太郎は納得した様子だった。 「うん!」 完全にいつもの元気を取り戻すと、「ただいまあっ!」と叫びながらくつを脱ぎ捨てて、どたどたと廊下を走っていった。  五代はため息をついた。簡単に元気になれる賢太郎が、うらやましかった。 「……おれだって、信じたいよな」 「五代君」 「だああっ! ……何だ、四谷さんか」 「お豆腐屋さんでも待ってたんですか」 「……アホですか、あんたは!」 五代は腹立たしげに戸を閉めて、部屋に戻った。  「五代君、何してんのさ」 一の瀬がどかどかと階段を下りてきた。五代は階段の一番下に座り込んでいた。 「何だい、トイレに行くなんて言って、何ぼーっと座りこんでんのさ」 「いえ……三瓶さんが帰ってきたら、一緒に上がりますから」 「そんなこと言って、管理人さん押し倒しちゃダメだよ」 つまらない冗談は言ったが、一の瀬はあっさり引き下がってくれた。 (それにしても遅いな、三瓶さん) だが五代がそう思った瞬間、三瓶は帰ってきた。 「ただいま」 「……お、お帰りなさい」 「明日は、晴れそうですね」 「……は、はあ」 三瓶が何か言う前に鋭く切り込んでやろうと、頭の中で何度も予行演習を繰り返したのに、いざ三瓶を前にすると、緊張で言葉が出ない。それでも、こくっとつばを飲み込んで話を切り出そうとしたのだが、 「あ、あの……」 「行かないんですか、二階(うえ)」 悠揚迫らぬ態度で、三瓶は見事に五代の出鼻をくじいてくれた。 「……え、ええ、今」 「これ、差し入れです。駅前のたこ焼き」 「あ、はあ……どうも」 差し出された紙箱を、受け取ってはいけないと思ったのに、五代は受け取ってしまった。それで、話の接ぎ穂がなくなってしまった。そして、 「あら、お帰りなさい」 とうとう、響子が出てきてしまった。 「あの、ちょっとお話しがあるんですけど」 「はあ」 響子は、五代に目配せをした。 (私が聞きますから) 五代は目を伏せた。それから、未練がましく上目遣いに三瓶を見たのだが、三瓶もこちらを見ていた。 「じゃっ、じゃあ、これみんなに渡してきますね」 五代は逃げるように階段を駆け登った。 (くそっ、情けねーなー!)  「そうでしたか、見られてしまいましたか」 見た感じ、三瓶の表情に動揺はなかった。 「ええ。ですから、一応聞いておこうと思いまして。このままだと、三瓶さんも不愉快 でしょうし……」 三瓶は出された茶を一口すすった。 「あの会社に出入りしていたのは本当です。ただし、客としてですが」 「……は?」 「実は、私はあそこで生まれたんです」 遠い目をして、三瓶は続けた。 「昔は、あのあたり一帯長屋でした。私の家の前を、角筈(つのはず)から水天宮まで行く都電が走ってましてね。今じゃ、面影もありませんが」 「角筈?」 「伊勢丹のあるあたりですよ。町名変更で、新宿何丁目だかに変えられちゃいました」 「……」 響子は黙って、三瓶の話に聞き入った。 「空襲で焼け出された後も、またみんな集まってきて、同じところに長屋を建て直して住んでたんですが……高度成長の波には勝てませんでした。私が高校を出て、就職して間もなく、その長屋は取り壊されてしまいました」 「……」 「そのときに建てられたビルものちに取り壊されて、今のものに建て替えられたんですが……あのビルの地面に、私の家が建っていたのかと思うと、懐かしくてねえ」 都電が東京から消えたのが昭和四十四年。長屋がなくなったのはそれよりさらに十年以上前のことだ。その当時のことを、響子が知るはずもない。だが、三瓶の話を聞いていると、長屋のあった頃の様子が、まるで目の前に浮かんでくるように思えた。  三瓶は茶をすすって、渇いたのどをうるおした。 「信じて、いただけますか」 響子はうなずいた。 「ありがとうございます」 「いえ、そんな……」 それから、響子は少し目を伏せた。 「いつまでも、ここにいて下さいね」 そのとたん、三瓶の表情が一瞬暗くなった。だが、 「……はい」 彼は、静かにそう答えた。  その表情の変化をごまかすように、三瓶はもう一度茶を飲んだ。 「いいところですね、ここは……本当に、いいところだ」 「……ええ」 「……まるで、私の生まれた長屋のようだ……」  響子の話に、五代はかみついた。 「そんな、話がうますぎますよ」 「でも、うそをついているようには見えませんでしたよ」 「けど……」 「おかしいですなあ」 背後霊のごとく五代の後ろに立ち現れたのは、四谷だった。 「だわっ!!」 「都電13系統は確かに新宿駅前から水天宮まで行っておりましたが、角筈を出ると大久保の方に曲がっておりました。新宿三丁目を通っていたのは11系統月島通八丁目行きと、12系統両国行きです」 「ちょっと、何で四谷さんがその話を知ってるんですか」 一の瀬と朱美が顔を出した。 「四谷さんに隠し事は無用だよ。あんただって分かってんだろ」 「あたしらみんな知ってるもんね、ドリームタウンって会社のことも」 「……」 「でも四谷さんの言う通りなら、三瓶さんの言ってることはうそじゃないですか」 響子の顔が、かすかに曇った。 「……記憶違いじゃないでしょうか」 「子どもの頃、毎日その電車を見て育ったんでしょう? それを間違えるなんて、おかしいですよ」 五代は言いつのった。 「でも……」 「残念ながら、あと一つ」 四谷の記憶の正確さは、一級品だった。 「あのあたりは昔、内藤新宿と呼ばれた宿場町でした。鉄道開業で宿場がすたれたあとも商業地として発展してきましたから、少なくとも表通りに長屋のような建物が建ったことはありまつぇん」 「あ……」 事ここに至って、響子も三瓶を疑わざるを得なくなった。三瓶のための言い訳を必死で考えていたのだが、四谷の記憶力の前にあっては無駄な努力だった。 「僕からも、三瓶さんに聞いてきます」 「まあ、そうはやらなくたってさ」 駆け出そうとする五代を、一の瀬が止めた。 「どうせ宴会やってんだからさ、ここで話聞きゃいいじゃない。三瓶さーん、三瓶さんたらー!」 「三瓶さんなら、お風呂に行かれましたけど」 「何だい、今から出かけなくたって。まあいいや、帰ってきたら聞こうよ」 だが、もともと問題を真剣に考えるのは一刻館住人のガラではない。宴会のどんちゃん騒ぎの中で結局その話は忘れ去られ、三瓶が帰ってきたことにだれも気付かなかった。  そして、再び彼の顔を見ることはなかったのである。  5 雲去りし後  翌日。  響子はいつものように庭を掃き、五代は単位稼ぎの集中講義に出席するのと就職情報探しを兼ねて、久しぶりに早起きして降りてきた。そこへ、電話がかかってきた。 「あ、僕出ます」 はきかけの靴を放り出して、五代が受話器を取った。 「はい、一刻館」 「三瓶を出せ! 今すぐだ!」 切迫した口調と高圧的な態度に、五代は一瞬きょとんとしたが、 「……分かりました」 と言って受話器を置くと、三号室のドアをノックした。 「三瓶さん、電話ですよ」 ──返事はなかった。 「三瓶さん、起きて下さい。電話ですよ!」 そう叫んで、五代はもっと強くノックした。だが、部屋の中からはかさりとも音がしない。 「どうしたんですか?」 物音に気付いて、響子が上がってきた。 「三瓶さんに電話がかかってきたんですけど、呼んでも出てこないんです」 五代はなおもノックを続けた。だんだん回数が増え、音も建物中に響くほどになったが、やはり返事はなかった。響子は取りあえず、置きっぱなしの電話のところに行った。 「あ、もしもし? ちょっと、まだ起きてらっしゃらないみたいで、今呼んでるんですけど……」 「ちきしょう、逃げやがったな!」 一声叫ぶと、相手は電話を切った。思いきり受話器をたたきつけたらしい、耳障りな音がして、響子は思わず顔をしかめた。 「……何なのよ、一体……」 「どーしたってのさ、朝っぱらから」 他の住人たちも続々と起きてきた。そして事情を聞くと、それぞれに外から窓をのぞき込んだり、六号室の床をはずしたりを試みたが、誰も中の様子をうかがい知ることはできなかった。 「合鍵、取ってきます」 響子が、ついに最後の手段に出た。なじみの悪い合鍵はなかなか言うことを聞かなかった。ドアが開いた瞬間、みんなは一斉に中になだれ込んだ。そして手前の八畳間に何もないと見るや、奥の六畳間のふすまを引き開けた。 「……あ」 三瓶はいなかった。わずかばかりの荷物も、一緒に消えていた。そして、カーテンを通してまばゆいばかりの朝日が差し込む中、角樽が一つきり、置かれていた。 「……粋ですなあ」 四谷がつぶやいた。  三鷹と五代は、重い気持ちを抱いてドリームタウンの本社から出てきた。 「……どうする。このことを、音無さんに知らせるか」 「知らせたくないですけど……でも、隠すわけにはいかないでしょう」 「……そうだな」 それから、三鷹は仰々しい電光看板を見上げて,吐き捨てるようにいった。 「何が、ドリームタウン(夢のまち)だ」 五代も、同じ思いだった。  「三瓶さんが、地上げ屋!?」 一の瀬と朱美が、一緒に大声をあげた。あの四谷までもが、呆気にとられた顔をしている。 「ありていに言えば、そういうことです」 三鷹は低い声で答えた。まるで、自分が責任を感じているような暗い表情だった。 「でも地上げ屋つったら、大声で騒いだりネズミの死骸を投げ込んだりして、嫌がらせをするんじゃないの」 「いえ、そういう目立つことをするのは、実は三流の地上げ屋なんです。一流の地上げ屋は、それと悟られないようにいわば心理作戦を展開するんです」 まず三瓶が、ごく普通の入居者を装って一刻館に入り込む。そして、住人たちと適当に距離を置きつつ、さりげないみやげ物なども使ってその心をつかんでいく。 「住人たちの中に入り込めた頃を見計らって、一刻館取り壊しのうわさを流します。これには、ドリームタウンの社員も協力しています。そして住人たちが浮き足立ったところへ、社員の一人がニセの登記移転証書、つまり土地がドリームタウンのものになったという書類を持って一刻館にやってきます」 社員は、一刻館の住人を集めて、速やかに立ち退くよう要求する。ここで三瓶は、あくまで何も知らない住人のふりをしつつ、巧みにドリームタウンの立場に立って、住人がここを立ち退かなければならないことを印象づける。家主と管理人の間にもドリームタウンが割り込んで連絡を絶ち、混乱を大きくするようにしむける。音無老人が理事会の旅行に出かけることも、すべて折り込みずみだったのだ。 「そして、住人たちの考えが立ち退きに傾いた頃に、トップを切って三瓶さんが出ていくんです。すでに動揺し切ってますから、一人が立ち退けば、あとはなだれを打って出ていきます」 こうして、住人たちは詳しい事情も分からないまま、引っ越していく。そして、無人になった一刻館を相手に、本当の買い取り交渉が始まるのだ。  ……響子はわずかに唇をかみしめて、黙っていた。 「しっかし、あんな虫も殺さない顔してねえ」 「まーったく。あの人のこと、結構まともでいい人だと思ってたのに。でも管理人さん、今度から新しい人入れるときは、気をつけなきゃダメよ」 「あーあ。いくらこっちが親切にしてやったって、仇で返されたんじゃあ」 「そうでしょうか」 一の瀬の愚痴を、響子は鋭く切り返した。みんなが響子を見た。 「確かに、そういう目的でここに来たのかも知れません。私たちのことを、何とも思ってなかったのかも知れません。……でも、好きでやった事じゃないと思うんです。それに、結局のところ、実際には何も起こらなかったことですし……」 「そこなんですよ、おかしなのは」 三鷹が口をはさんだ。 「おかしなって、何が」 「ドリームタウンの計画は順調に進んでいて、今日明日にでも社員が一刻館に来るところだったんです。それなのに、三瓶さんが土壇場で話を降りてしまったんです」 「え……」 「あの会社は、営業時間外に電話がかかってきたときは機械で案内を流して、メッセージ をテープに録音してもらうようにしてるんです。それで今朝、社員がいつものようにテープを聞いてみると、三瓶さんからのメッセージが入ってたんです。『私は手を引く』と」 「……手を引くって、一刻館から?」 「ええ」 「それでアワを食った社員が一刻館に電話して、今朝の騒ぎになったんだ」 「怒ってましたよ、あそこの人たち」 無理もないことだ。億単位の仕事をフイにされたのだから。三鷹と五代が行ったときも、社員が総出で事後処理に追われていたのである。 「『逃げやがったな』って言ってたのは、そういう……」 「じゃ、三瓶さんは……」 一の瀬の言葉のあとを、四谷が引き取った。 「あの会社は、二度と仕事をくれませんな」 「それだけじゃない。あの会社から業界に情報が流れたら、他の会社の仕事だってできなくなるんです」 「人情におぼれて、仕事を投げ出した、か……地上げ屋失格よねー」 そこまで分かっていて、なぜ三瓶は仕事を投げ出したのか。  響子には分かった。彼は一刻館に愛着を持ってしまったのだ。このボロアパートに、自分の生まれ育った長屋の面影を見てしまったのだ。子どもの頃の思い出につながるこの建物を、わが手でこわしてしまうことなどできなかったのだろう。 「……新しいものが生まれ、古いものが消えてゆく。消えてゆくのは、仕方のないことかも知れないが、消えたものを忘れてしまっては、いけないんじゃないか……」 そう言う四谷の口調は、詩の一節でもなぞるようだった。 「何なのさ、それ」 「三瓶さんの言葉です。近所で会ったとき、そう語ってくれました」 「……長屋の話は、本当だったんでしょうね。場所は違ってたと思いますけど」 それまで黙っていた五代が、初めて口を開いた。 「三瓶さんが、ねえ……」 三瓶のことを悪く言う者は、もうだれもいなかった。それより、仕事をなくした三瓶がこれからどうなるのか、みんなそのことを心配していた。だが、一刻館の住人が何を考えたところで、どうにかなるものでもない。三瓶自身が、一人で考えなければならないのだ。できることなら、今度は人に感謝されるような、いい仕事を見つけてほしい。それが、全員の一致した思いだった。 「……しかしあの酒、うまそうでしたな」 さっきの重々しさとは打って変わって、四谷は脳天気な声を出した。 「飲もうか」 「決っまりー!」 全くこの三人は、悩みを引きずらない天才だった。 「角樽、どこに置いてんのー?」 「決まってんじゃない、五代君の部屋だよ。二階堂君、今日はサボんじゃないよ」 「分かりましたよお」 「かーちゃん、うちのメシは!?」 「カップラーメンでも食ってな」 追いすがる賢太郎に無責任なセリフを吐いて、三人は足取りも軽く二階に上がっていく。二階堂も、まんざらいやそうでもない顔でついていった。 (……やれやれ) 響子はそう思ったが、本気であきれているわけではなかった。むしろ、嵐が去って、一刻館のにぎわいが戻ってきたことに、ほっとする思いだったのだ。 「三瓶さんて、やっぱりいい人だったみたいですね」 五代が言った。何となく、すまなさそうな口調だったが、響子はむしろ明るい声で返した。 「でも、ここにはいい人たちがいっぱいいますから」 だが、響子がそう言ったとたんに、朱美の大声が響いた。 「何やってんのよ、待ってんのにー」 「早くおいでよ、酒がなくなっちゃうよ」 「あーっ、ほんとになくなっちゃう! 四谷さんが!」 「こらあ、人の酒を!」 「これは私がいただいたんです!」 こちらの気も知らずに、階段の上では大騒ぎをやらかしている。 「……あれが、いい人たちですか?」 五代の問いかけに、響子はぷっと吹き出した。三鷹も、聞いた五代も一緒に笑い出した。 (……でもやっぱり、いい人たち……困った人たちだけど、いい人たち……) 「音無さん、僕らも飲みに行きませんか」 三鷹が提案した。 「三鷹さん、クルマでしょ?」 「一晩たてば、酔いはさめるよ」 「徹夜になっても知りませんよ」 「そんときゃ、そんときだ。音無さんも、行きませんか」 「ええ。じゃ、ここ(三号室)を閉めてから行きますから」 「それじゃ、お先に」 二人が出ていった後、響子はほっと一息ついて、からの三号室を見渡した。  たったの、十日ばかり。三瓶のいた痕跡など、全く残っていない。彼がここにいたことすら、うそのように思えてくる。  だが響子は、その十日ばかりの間に、今までになく様々なことを考え、驚くほど多くのことを学んだような気がしていた。 (一刻館のような場所は、もうここにしかないのかも知れませんよ) 三瓶は、そう言いたかったのではないか。  彼は、仕事を投げ出してまで一刻館を守ってみせた。そしてそうすることで、響子たちに一刻館の大事さを教えようとしたのではないか。  オンボロでも、何でもいい。ここにみんなが住み続けるのなら、絶対取り壊しなんかさせない。 (……私が、守ってみせる) 「管理人さーん、まだですかー? みんな乾杯するの待ってるんですよ」 五代が呼んでいる。 「今、行きまーす」 カーテンを閉めて、ガスの元栓を閉じ、電気を消して、最後にカギをかける。その最中に、ふと、三瓶と一緒に歌った数え歌が、口をついて出てきた。 「一つとや、一夜明ければにぎやかに……」    ──終──