《めぞん一刻》 桜の下で ──1987年4月──  春3月。梅の花が終わり、かわって桜のつぼみがほころびかけていた。風に吹き飛ばされた花びらが一枚、音無家の座敷に舞い込んできた。 「早いねえ、もう来週挙式か……」 周介のつぶやきに、五代が答えた。 「はい。今日は、惣一郎さんの墓参り、すませてきたとこで……」 「うんうん、そうかそうか。これで、惣一郎も安心して休めるなあ」 響子と肩を並べる五代を、周介はまるで自分の娘の相手のように見やった。 「五代君、響子さんをよろしく頼むよ」 「はい」 元気よく返事してから、五代は少し申し訳なさそうな顔をした。 「まあ、最初はちょっと、苦労かけちゃいそうなんですが……」 台所から出てきた初江が、茶菓子を配りながら聞いた。 「しばらくは、共働き?」 「はい」 今度は、響子が答えた。 「それで、できればもうしばらく、一刻館の管理人を続けさせていただければと思って……」 「うちは大助かりよね、お父さん」 「ああ、みんな(住人達)も喜ぶだろう」 後がまの管理人が見つかるはずもなく、反対する理由は何もなかった。 「新居は?」 初江が聞くと、五代は急に困った顔をした。 「はあ、それが……僕は、近くにアパート借りようと思ってたんですけど……」 「まだ言ってる。引っ越し代だってバカにならないのに」 不満げな五代をたしなめるように、響子が口をはさんだ。 「ほお。すると、このまま一刻館に……?」 「はあ、子供ができるまでは……」 あくまで不承不承に、五代はうなずいた。無理もない。住人たちのちょっかいをやっと逃れて、響子と二人きりの新婚生活を始めるつもりでいたのに、これではまるで状況が変わらない。 「まあ、最初は地道に暮らした方がいいと思うが……」 「あんな環境で、子供できるかしら」 「ねえ」 初江と五代は顔を見合わせた。 「できるわよ」 「まあ、響子さんがそう言うなら……」 周介が、あまり根拠のない賛同をした。  「なにっ、管理人室に住んじゃうわけ?」 驚いたのは、一の瀬も同様だった。 「一時的にですよ。あくまで」 「ちゃっかりしてるねー」 いくらボロとはいえ、東京にいて住む場所がただで手に入るなんて、そうそうあることではない。 「ぜいたくは敵です」 穴を開けた石油カンでごみを燃やしながらそんなことを言うものだから、よけいに古風なしっかり女という感じがする。 「えっと、あと燃やすものは……」 つぶやきながら、響子は裏庭から部屋に戻った。一の瀬はタバコに火をつけると、ふうっと煙を吐いた。 (全っ然初々しくないなー……二度目だから、しゃーないか) もっと華やいだ雰囲気を想像していた一の瀬には、少々期待はずれだった。 「これはいらない、と……。」 響子の独り言を交えて続いていた物音が、急に止まった。一の瀬が振り向くと、響子は押し入れの中から紙袋を引きずり出して、それをじっと眺めていた。 「どしたの」 「え……いえ、ちょっと」 そこへ、段ボール箱を抱えた五代が入ってきた。後ろから朱美もついてきた。 「響子さん、これ、ついでにお願いします」 「あ、はいっ」 響子は立ち上がると、五代と一緒に外に出た。朱美もついて行きかけて、ふと紙袋に目を止めた。 (んー?) 袋の口から、アルバムと一緒に、「寿」と金箔押しされた二つ折りの厚紙が目に入った。朱美は、ふん、と首をひねってから、がさりと袋に手を突っ込んで、それを取り出した。 「ねー、管理人さん」 「はい?」 「これ、前の時の結婚写真でしょ。見せて」 (しまった!) 響子はあっと叫びそうになった。そして止めようとしたが、朱美はすでに写真を開いていた。 「朱美さーん、だめじゃない。人の持ち物勝手に……どれどれ」 一の瀬も結局一緒になってのぞき込んでいる。 「へー、さすがに初々しいね」 響子は気まずそうに視線を落とした。見られるにしても、せめて五代のいないときだったらよかったのに…… 「ほらほら五代君、管理人さんきれいだよ」 朱美が五代の前に写真を突き出した。 「あ、そんな、無理に見せなくても……ねえっ」 「そんなこと……」 無理に隠さなくても、という気持ちを暗に込めて、五代は写真を手に取った。 「でも……」 五代は写真を見つめた。キリスト教式だったらしく、モーニングを着た惣一郎と、ウエディングドレスの響子が、腕を組んで立っていた。 「へえ。惣一郎さんの写真、初めて見たけど……やさしそうな人ですね」 くせのある髪に、少しやせた感じの頬とあご。丸いメガネの奥から、細い目がやわらかくこちらを見ている。以前に響子が、「春みたいなおだやかな人」と言っていたが、その言葉がぴったり似合っていた。 「え、ええ……ごめんなさい」 響子は謝罪の言葉を口にした。だがそのせいで、かえってその場の雰囲気は気まずくなってしまった。一の瀬も朱美も、冗談ですまないことをしたような気分になってしまった。 (あやまること、ないのに)  「ほこりが立つじゃないのよー、少しぐらい静かにしなさいよ」 「引っ越しやってるところに上がり込んだのはあんたらでしょーが」 一の瀬以下三人のすき間をぬいつつ、五代は本を積み上げていった。 「五代君、昼間の写真、気にしてないのー?」 「って……ああ、結婚写真ですか? おれは、別に……」 「ほんとーお?」 「だって……おれは全部承知で結婚するんだし……死んだご主人の写真見たって、気にす ることないでしょ」 「そんなもんかねー」 一の瀬がカップ酒をあおった。 「けどさ、管理人さんはすっごく気にしてるよね」 「そうそう、いきなりあやまっちゃうんだもんねー。絶対あれ、ふっきれてないわよ」 五代はぎくりとした。 「そ、そうですか?」 「バッカじゃないの、あんたー。だれが見たって一目瞭然よー。きっと今頃、“申し訳ありません五代さん、私は惣一郎さんが忘れられません。どうか私の身勝手をお許し下さい”って、湘南の海に入水自殺とか」 「やめて下さいっ、縁起でもない! ……ほら、部屋出るからどいて下さい」 四谷の上をまたぎ越し、廊下に一度荷物を置いて戸を閉めたとき、中から、 「逃げた」 という一の瀬の声がした。  五代はちぇっと舌打ちをしてドアをにらんだが、すぐ目を落とした。住人たちに言われるまでもなく、響子の見せた態度はずっと引っかかっていたのだ。 (……響子さん、心の整理、まだついてないのかな) あの晩──五代と響子の間では、それだけで何のことか通じていた──響子は惣一郎への思いのたけを全て吐き出して、その上で五代を迎え入れたはずだった。しかし、これまで惣一郎が果たしていた役割の全てを、いよいよ五代が引き継ぐことになった今、響子の心がそれをすんなりと受け入れられるかどうか……  荷物を持って階下に降りてみると、管理人室のドアは半開きになっていた。ついノックもせずに戸を開けた五代は、息を飲んだ。  五代の物ではないネクタイを目に押し当てて、響子が泣いている。 「響子さん……?」 響子はびくんと体を震わせて、顔を上げた。 「どうしたの……」 「な、何でもない」 響子はそそくさと目をこすった。そして机の上に散らかった物をあわててかき集めようとした。だがすぐ、観念したように手を止めた。  メガネ、懐中時計、鉱物採集用のハンマー…… 「これ……惣一郎さんの?」 つみびと 罪人のように、響子はうなずいた。籐細工の箱におさめられていたそれらが、惣一郎の生きていた一つの証(あかし)だった。 「明日にでも、音無のお義父(とう)さまにお返ししてきます」 「なんか……つらそうだな」 五代がつぶやくと、 「違うの、未練なんかじゃなくて……ごめんなさい。もっと早く、返しておくべきだった……」 「いやなら、無理に返さなくても」 「それはだめ」 五代の思いやりを、響子ははねつけた。 「けじめつけなくちゃ。ねっ」 そう言って、響子はにこっと笑ってみせた。だが、「けじめ」という、その場に不似合いで生硬な言葉が、妙に五代の心に残った。  「どうしたんです五代君、元気がありませんな」 ふとんに入った五代の枕元に懐中電灯を突き出して、死神のごとく四谷が現れた。 「管理人さんとケンカでもしたんだべか」 「してませんよ」 五代は懐中電灯の光から目をそむけた。 「今からこれでは、先が思いやられますな」 「してないちゅーに!」 「左様にございますか」 「さっさと寝て下さいっ」 四谷が引っ込んでから、五代はふとんの中で目を開いた。 (これから先……か) 解決しなければならない問題が、まだ残っているようだった。  次の日の朝、起き出した五代は、いつものように管理人室に行った。 「おはようございます。ご飯、できましたか」 「もう少しですから、座って待ってて」 三月に入ったころから、五代の食事や弁当を、みんな響子が作るようになっていた。炊きたてのご飯に温かいみそ汁。そういう、当たり前の食事が、五代には新鮮で、また懐かしかった。何しろ、浪人時代からずっと、学食とファーストフードとインスタント食品で過ごしてきたのだ。 「お代わりは?」 「もう行かなくちゃ。おいしかったよ」 五代が立ち上がると、響子が弁当をつめたカバンを渡した。 「それじゃ……」 「あの……」 五代が振り返ると、響子はわずかに目を伏せた。 「今日……音無の家に行ってきますね」 そう、と五代は口の中でつぶやいた。 (無理はしないで) そう言おうかとも思ったが、そぐわない気がしてやめた。 「じゃ……」 背を向けると、五代はドアに手をかけた。その時、 「あの……」 一声呼びかけると、響子はやにわに五代に抱きついた。 「もう、あなただけなの……私には、あなただけなの……」 そう、早口にささやいた。 (響子さん……) まわした腕に力がこもった。高まった鼓動が、五代の背にはっきり伝わってきた。  二十秒ほども、そうしていたろうか。響子はようやく体を離した。 「行ってらっしゃい」 「……行ってきます」 五代は響子を振り返らなかった。  門を出たところで、五代はほうっと大きく息をついた。きつく抱きついてきた響子の感触が、まだ生々しく残っていた。 (もう、あなただけなの……) 思いがけず強い力だった。それがかえって、響子の迷いを感じさせた。 (もしかすると……) もう何年も前、一刻館に来たばかりのころ、響子は惣一郎の思い出にしがみつき、未来を見ようとはしなかった。それと同じ思いで、彼女は今またことさらに五代だけを見、惣一郎の思い出を心からひきはがそうとしているのではないか。それが、決していい結果にはつながらないのに……  もし、惣一郎の名前が出るたびに、お互い口をつぐむようなことがあるのなら、二人は本当に幸せだとは言えない。五代は、強くそう思った。 (さて、どうしたもんかなあ)  妙法寺前の停留所でバス停を降りると、籐細工の箱を包んだ風呂敷包みとチューリップの花束を手に、通いなれた道を響子は歩きだした。 (遺品返すこと、ちゃんと断らなきゃ) この前五代と来たばかりだったが、遺品のことは遺品のことで、きちんとしておかないと気が済まなかった。  山門をくぐり、本堂の脇を抜けて墓地に入った。そして角を曲がったとたん、響子はびっくりして足を止めた。 (五代さん……!?) 惣一郎の墓の前に、五代がいた。花を供え、墓石もちゃんと手水で濡らしてある。 (……何しに来たんだろ) 響子がここに来ていることだって、他人には理解に苦しむことかも知れないが、五代がなぜここに来ているのか、響子には見当もつかなかった。  一列横の並びから五代の居場所に近づくと、響子は他にだれもいないのを幸い、隣の墓石の裏にそっと身をひそめた。  五代はポケットからマッチを出すと、持っていた線香束に火をつけて、墓石の前に供えた。そして手を合わせた。  合掌を解くと、五代はしばらく、何かをためらうように黙っていた。響子のように、声に出して墓に話しかけたことなどなかったからだったが、やがてぽつりと口を開いた。 「惣一郎さん。正直言って、あなたがねたましいです。……遺品返したところで、響子さん、絶対にあなたのことを忘れないと思う……」 五代の言葉に響子は驚いたが、同時にそれを認めねばならなかった。五代が言ったことは、今までのさまざまな努力にもかかわらず、響子自身が感じていたことだからだった。それに気付くたびに響子はその気持ちを押し殺し、ひた隠しにしていたのだが、五代には通じなかった。 「忘れるとか、そんなんじゃないな……あなたは、もう響子さんの心の一部なんだ……」 (五代さん……) 五代は何もかも知っていた。あまりにも長く惣一郎を想い続けていたために、響子の心の一番深い部分に惣一郎の存在が刻まれ、それを消すことはもはやできなくなってしまった。だれにも各紙通していたのに、そのことさえも五代は知ってしまった。  惣一郎を振り切れない自分の心の頑固さが、うとましかった。そして、五代にそれを知られたのだと思うと、響子は怖くなってしまった。  もう無邪気なふりなどできない。自分たちがこれからどうなってしまうのか、響子は不安でたまらなくなった。その時、五代が言った。 「だけど、おれ、何とかやっていきます。……初めて会ったときから、響子さんの中にあ なたがいて……そんな響子さんを、おれは好きになった……」 そこで言葉を切ると、五代はまるで本当に惣一郎の姿を見ているように、まっすぐ前を見た。 「だから、あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」 ──響子ははっと息を飲んだ。目頭がさっと熱くなった。思わず声をもらしそうになって、響子は急いで口を押さえた。  一つ、また一つ、涙が心地よく頬を伝い……響子の心に、包み込まれるような幸せが満ちていった。今まで生きてきて、こんなに確かに、人の真心を感じられたことはなかった。五代のやさしさが、自分を大きく包み込んでくれる、そんな感じがした。 ──惣一郎さん、と響子は呼びかけた。あたしがこの人に会えたこと、喜んでくれるわね。── それは、同意を求めるよりむしろ、確信に近かった。  やがて、響子は涙を拭くと、墓の裏から歩み出た。そ知らぬ顔をしようかとも思ったが、五代の告白をもれ聞いたことをむしろほのめかしたいような気さえして、そのままの表情で出ていった。  当然、五代は意外そうな顔をした。 「響子さん……どうして……」 「あなたこそ……保育園は?」 「いや、昼休みの間、抜けさせてもらって……」 響子の顔の泣き跡に、五代は気がついた。  告白を聞かれたのかな、と五代は思った。聞かれたのならそれはそれでかまわないと思ったが、響子が聞いたのか否かは気になった。 「いつから、いたんですか?」 その質問には答えないまま、響子は五代に代わって墓の前にしゃがんだ。そして持ってきた花束を供えると、風呂敷包みを開いて箱を出し、花束と並べて置いて、手を合わせた。 「惣一郎さん。これから、あなたの遺品、お義父さまにお返ししてきます」 「あの……響子さん。それ(遺品)ね、無理に返さなくても……」 ゆうべと同じ言葉を、五代は繰り返したが、響子は、 「いいの。……これで、いいの」 その顔には、どこかふっ切れたような明るさがあった。  響子は立ち上がった。そして、五代の手をそっと握った。 「あたし……あなたに会えて、本当によかった」 そして五代の顔を見上げた。この、言葉で言い表せない気持ちを、精一杯目で伝えたい、そんな思いを込めて五代を見た。  響子はつぶやいた。 「……さようなら、惣一郎さん」 挙式まであと三日。桜の満開も間近だった。   ──終──