《めぞん一刻》 消えた惣一郎 ──1983年6月──  「分からないところ、全部教えてもらった?」 「うん」 「じゃ、明日からの試験もバッチリね」 「へへっ」 郁子は明日から期末テスト。というわけで、今日は特別に五代の部屋で家庭教師をやったのだ。響子は惣一郎の散歩がてら、帰る郁子を駅まで送るところだった。 「ねー、おばさま」 郁子はころっと話題を変えた。 「おじさまのこと、まだ覚えてる?」 「えっ……」 響子はびっくりしたように、郁子の顔を見た。 「うん……覚えてるわよ」 そう言って、響子はちょっと遠くを見るような目をした。 「そうねえ……でも、このごろ痛くなくなったみたい」 「え?」 今度は郁子が響子の顔を見た。 「ちょっと前まではね、惣一郎さんを思い出すと、このあたりがきゅーっと痛くなっちゃって……」 響子は胸のあたりを押さえてみせた。 「本当に、痛いのよね……」 「ふーん……」 その時の痛みを思い出してしまったのか、響子の顔はいかにも苦しそうだった。 「ねー、前から聞こうと思ってたんだけど……」 郁子はまたころっと話題を変えた。しんみりとしてしまいそうな雰囲気を無意識のうちに察したのかも知れなかった。 「何で、犬におじさまの名前つけたの?」 響子はくすんと笑った。 「うやむやのうちに……ね」 ──あれは、惣一郎と結婚して間もないころだった。夕食の買い物を済ませて家に帰る途中、学校から帰る途中の惣一郎が犬と一緒に前を歩いているのを、響子は見つけた。 「惣一郎さん」 「あ……」 惣一郎とその犬が、一緒に振り返った。逆光でシルエットになった惣一郎の横顔に笑いかけてから、響子はけげんな顔をした。 「どうしたの、その犬」 「……駅からずっとつけられてるんだ」 「汚い……野良犬じゃない」 薄汚れた白い毛がぼさぼさと生え、耳は垂れ下がり、眠ったような目をしている。雑種なのは当然として、どうひいき目に見てもいいところのない犬だった。 「このヤキトリの匂いのせいかな。一本やろうか」 惣一郎が抱えた紙袋に手を突っ込んだので、響子はあわてて止めた。 「だめよ、エサやったらくせになるから」 「だって……ついてくるよ」 「無視するのよ。今にあきらめるから」 ……結局、犬はあきらめなかった。のみならず、音無の家に居座ってしまった。庭に寝そべって物欲しげな目をする犬を無視し続けて三日、とうとう惣一郎が根負けして、手を出してしまった。響子は止めたものの、犬をたたき出すほど冷たくもなれなかったので、結局黙って見ているしかなかった。  体を洗ってやりながら、惣一郎は犬に名前をつけた。 「シロ、おまえはシロだよ」 犬は何の反応も示さなかった。 「シロ」 犬は振り向こうともしなかった。そこへ、響子が惣一郎を呼びに来た。 「惣一郎さん、ご飯よ」 「はいっ」ばうっ。 惣一郎と犬が、一緒に振り向いて返事をした。 (お前……) 惣一郎は言うことを聞かない犬をにらみつけた。犬は平然として、響子の顔を見ている。その後も、響子が惣一郎を呼ぶたびに犬も返事をし、とうとう惣一郎が全然離れたところにいるのに反応するまでになってしまった。 「お前はシロだというのに……」 自分の名前を横取りした犬を前に、惣一郎は憮然とするしかなかった。 ──「ずーずーしかったのね、あんた」 郁子はあきれた顔をして、惣一郎という名の犬を見た。  *  それから二、三日後のことだった。たまたま早く帰ってきた賢太郎が、惣一郎を散歩に連れていってあげるというので、響子は惣一郎を任せて送り出した。だが一時間ほどたってから、賢太郎は手ぶらのまま、息せききって一刻館に戻ってきた。 「どうしたの、賢太郎君。惣一郎さんは?」 「も、戻ってない?」 「えっ……だって、さっき連れてってくれたじゃない。何があったの?」 「あ、あのね……」 賢太郎は上目遣いに響子を見て、すぐまた目を伏せた。 「……いなくなっちゃった」 「……」 ──惣一郎を連れた賢太郎が、駅前の踏切まで来た時のことだった。少し手前で警報機が鳴り出し、賢太郎は惣一郎をせかして踏切を駆け抜けた。向かい側からヤキトリを持った男が来て、すれ違った。その瞬間、惣一郎はくんくんと鼻を鳴らして首を曲げ、いきなりその男を追い始めたのだった。急に後ろに引っ張られて賢太郎はしりもちをつき、あっという間にひもをふりほどかれてしまった。 「惣一郎さんっ!」 起きあがって追おうとしたとき、賢太郎の頭の上に遮断機が降ってきた。いわれなき鉄拳をくらって、賢太郎は頭を抱え込んだ。その目の前で惣一郎は人混みにまぎれ、そして電車が進入してきた。駅に止まるために減速しながら通過する電車を、賢太郎はじりじりして待つよりしかたなかった。── 「踏切が開いた時にはもう見えなくってさ……おれ、ずいぶん捜したんだけど……」 「やだ……ヤキトリにつられたんだわ……」 「……おれ、もう一回捜してくる」 そう言うと、賢太郎は駆け出した。 「ちょっと賢太郎君、もうすぐ夕ごはんなんだから、ほっといても戻ってくるわよ」 「だって……」 響子の制止も聞かず、賢太郎は坂を駆け下りていった。  結局、惣一郎は見つからなかった。真っ暗になってから、賢太郎はしょげきって一刻館に戻ってきた。 「あー、おれどうしよう。見つからなかったら……」 「大丈夫ですよ、帰巣本能ぐらい持ち合わせてるでしょ」 「そーよ、野犬狩りがあったわけでもなかろうし」 四谷と朱美が気楽に言ったものだから、賢太郎はかえってむきになった。 「だってっ……惣一郎さんにもしもの事があったら……あいつ、管理人さんの宝なのに……」  そうだよなあ、大丈夫かしらん、と五代は思った。彼には賢太郎の気持ちがよく分かった。もし自分が惣一郎を逃がしたのなら、賢太郎以上に気に病むに違いなかったから……  *  「おはようございます。……まだ、戻らないんですか」 「ええ……」 「……僕、ひまを見て捜しますから」 「あらそんな、いいんですよ」 「いや、賢太郎も落ち込んでるし……」 「……気にすること、ないのに。惣一郎さんが悪いんですよ、ヤキトリなんかにつられて……」  *  五代にはあんな風に言ったものの、気にならないわけはなかった。買い物をしながら、響子はちらちらと視線を走らせて、惣一郎の姿を追い求めていた。 「あっ……」 白い犬が目に入った。響子は駆け寄って確かめてみたが、ただ白いと言うだけで、惣一郎とは似ても似つかなかった。飼い主らしい男の子が、けげんな顔をして響子を見た。  こんな事が、今朝から三度もあった。白い犬が、みんな惣一郎に見えてしまう。  商店街の電柱の一本に、手作りの看板がくくりつけてあった。  《犬をさがしてください。白くて、じじむさい犬です  連絡先 03-×××-××××》 子供の字で書かれた下に、惣一郎の似顔絵が描いてあった。賢太郎が作ったのに違いない。 「よっぽど気にしてるんだわ……」 それにしたって、と響子は思った。 (じじむさいはないじゃない……せめて年寄りくさいとか……同じか)  一週間たったが、惣一郎は戻って来なかった。  賢太郎は学校の先生に頼んで、朝礼で呼びかけてもらったらしい。五代も大学の行き帰りに、町内を聞き回っていた。一の瀬も四谷も、みなそれぞれに動いてはいたのだが、得るところはなかった。    *  茶々丸に、一匹の白い犬がやってきた。 「こいつでどうかなー」 「似てるような気もしますが」 白くて、毛がぼさぼさで、耳が垂れてて、もっさりした犬──そんなへんてこりんな条件で出した朱美の「犬ゆずって下さい」に、ようやく一件申し出があって、その実物がやってきたのだった。 「そろそろ見切り時だと思うんだよねー。管理人さんにはこいつで我慢してもらってさ」 「だめだね」 犬をろくに見もしないで、一の瀬は切り捨てた。 「どーしてー?」 「管理人さんが捜しているのはね、白い犬じゃない。『惣一郎さん』なんだよ。……代わりはいないんだよ」 はあ、と朱美はため息をついた。 「朱美ちゃん、友達やらお客さんやらあちこち連絡して、やっとその犬見つけたのにね」 「しゃーないね、こいつは返すか。それにしても、どこ行っちまったんだろ、あのバカ犬」  「ほーんと、ごめんねー。うちのガキ、粗忽だから……」 「いいんですよ、本当に。あまり気にしないでって、賢太郎君に言ってあげてくださいな」 響子はそう言った。だが、一の瀬がその顔を見つめると、目をそらしてうつむいてしまった。 ぎこちない沈黙が訪れたとき、子供の声が響いた。 「犬が死んでるよっ!」 その瞬間、響子はびくんと体をふるわせて、立ち止まった。 「どこおっ」 「ここ、ここ」 響子は硬直したように立ちすくんでいる。それでも一の瀬の視線に気付いて、無理に笑顔を見せた。 「ま、まさか……違いますよね」 「いいよ、見てきたら」 「そ……そうですね」 響子はつっかけを鳴らして走っていった。無惨にひきつぶされたその犬は、しかし惣一郎ではなかった。ほっとしたような、がっかりしたような気分で、響子は一の瀬のところに戻った。 「違った?」 「ええ」 やれやれ、と一の瀬は大きくため息をついた。 「それにしても、これだけ人に心配かけて、惣一郎さんは何をやってるんだろうねえ」 二人の足取りは重かった。いつもの倍ぐらいの時間をかけて、ようやく二人は一刻館に着いた。この一週間いつもそうしているように、もしや惣一郎が戻っていないかと犬小屋をのぞき込み、そしてこの一週間いつもそうであるように、そこが空っぽであるのを見ると、響子はため息をついてしゃがみ込んだ。 「先に入ってるよ」 一の瀬の声に、響子は答えなかった。  ごはんの皿がほこりをかぶって黒ずみ、雨水がたまっている。 (惣一郎さん……) ──あの日、響子は縁側に座って、ぼんやりと庭のつつじを眺めていた。惣一郎が死んで、わけも分からず葬式は出したものの、そのことがまだ心にしっくりと来ないまま、虚脱した日々を過ごしていた。  義父の周介が話しかけた。 「響子さん……これから、どうする……?」  そんなことを言われても、答えられるはずがなかった。目の前の出来事がまだ信じられないのに、どうしてこれからのことなど考えられよう。  響子は黙ったまま、あいかわらずつつじを眺めていた。その前で惣一郎に写真を撮ってもらったことが、夢のように思い出された。  周介はため息をつくと、やがて出ていった。 「惣一郎さん……」 もう答える者のないその名を、響子はつぶやいた。  犬がくんくんと鼻を鳴らしながら、響子のそばに寄ってきた。 「シロ……」 犬は響子のそばによって鼻を鳴らすと、今度はくつぬぎの上の下駄をかぎ回り始めた。 「どうしたの? 惣一郎さん探してるの?」 響子は犬の背をそっとなぜて、言った。 「惣一郎さん、もういないのよ……」 そう口に出したとたん、また悲しみがこみ上げてきた。あれだけ泣き明かして、もう枯れたと思った涙が、とめどなくあふれて頬を伝った。 「もう……いないのよ……」 犬が顔を寄せると、頬をなめて涙をふき取ってくれた。響子は突然縁側からすべりおりると、しっかりと犬を抱きしめた。 「惣一郎さんっ……」  犬の名前が惣一郎になったのは、その時からだった。  惣一郎の名を呼べば、この犬は答えてくれる。この犬が、惣一郎の身代わりなのだと思ったのだ……。 ──響子は卒然と顔を上げた。いつの間にか、目に涙があふれていた。 (だめ! 死んじゃいや!) 買い物袋をその場に放り出すと、つっかけのままで、はじかれたように響子は走り出した。  「白くて毛が長くて、じじむさい犬……? いないねえ」 台帳を繰っていた保健所の係員は、すげなく言った。 「はあ……そうですか……」 ほんっとにあのバカ犬は、どこ行ったんだ、と思いながら、五代は保健所を出た。駅をはさんで一刻館と反対側になるそのあたりは、ふだんあまり歩くこともなかった。 「シーザーだよっ」 「やーよ、ジュリーだってばー」 道端の家から、子供の声が聞こえてきた。 「二人とも、いーかげんにしなさいよ」 「だーってお母さん、お兄ちゃんがねーっ……」 五代は何となく、その声に耳を傾けていた。 「そんなもっさりした犬に、シーザーもジュリーもないでしょ。ボケがぴったりよ、ボケになさい!」 (ボケ?) 五代はあっと思った。自分が初めて惣一郎と顔を合わせたときのことを思い出した。 「ほらボケ、ごはんだよ」 ばうっと犬が吠えた。その鳴き声に、聞き覚えがあった。 「それごらん、ボケって言ったら返事したじゃないか」 「お母さん、エサでつったんじゃないかー」 「惣一郎!」 五代は塀越しにどなった。まさしく惣一郎が、五代の声に応えるように吠えた。ついさっきは目の前の親子にしっぽを振っていたくせに、意外に惣一郎はしたたかなようだった。    響子は再びしょぼくれて、時計坂を登っていた。人目もかまわず惣一郎の名を呼んで走り回ってはみたものの、一刻館の住人が総出で、一週間かかっても見つからないものが、そんなことで見つかるはずもないのだ。  ふと、人の気配を感じて、響子は目を上げた。先に見える路地から、五代が現れた。その五代が連れているのは……この一週間、ただその姿を追い求めていた、惣一郎ではないか! 「惣一郎さん!」 「あ……」 響子の声に、五代と惣一郎が一緒に振り返った。五代の顔が、逆光の中でシルエットになった。 (えっ……) その瞬間、響子は息もつけないほど驚いた。犬ではなく人の方に向かって、惣一郎さん、と呼びかけそうになった。……だが、こちらに向き直って、響子に笑いかけた顔は、やはり惣一郎ではなく、五代だった。 「ほら行け、惣一郎っ」 五代はひもを離すと、惣一郎を送り出した。惣一郎は尾を振りながら駆けて行って、響子にじゃれかかった。それなのに響子は、惣一郎には眼もくれないまま、ただじっと五代の顔を見つめている。 「よかったですねー、管理人さん……?」 五代はけげんな顔をした。 「……管理人さん? どうしたんですか?」 「え……」 響子は、今初めて惣一郎に……いや、もしかしたら五代に、気付いたような顔をした。 「いえ、あの……ありがとうございました」 だがその感謝の言葉は、見るからにおざなりだった。 「……あの……」 「か、帰りましょうか」 一方的に言って歩き出すと、響子はほっと一つため息をついた。  振り向いた瞬間、五代は確かに惣一郎だった。背格好も、顔立ちも全然違う。それなのに、横顔の線が夕日に輝いたとき、その眺めは響子の中の記憶と──あの三年前の秋の日の記憶と、寸分違わなかった。 (どうしたのかな……本当に似てないのに……) 響子は、五代の横顔をじっと見つめた。五代がそれに気付いた。 「……どうしたんですか?」 「いえ、別に……」 響子はあわてて目をそらせてうつむいたが、それでも横目で五代を見続けていた。   ──終──