《めぞん一刻》 石とクリスマス ・・一九八三年十二月・・ 目 次 1 よみがえる記憶 2 バイトーズ・プロジェクト 3 発覚 4 中央線・石を求めて西東 5 ふたりの時間  1 よみがえる記憶  ──十二月十六日、午後四時のニュースです。東京・池袋の西武百貨店では、恒例の高さ十メートルのクリスマスツリーが飾られ、買物に来た親子連れなどが、一足早いクリスマス気分を味わっています。── ただ音を流すためだけにつけられたテレビの中で、アナウンサーがそんな事をぶつぶつつぶやいていた。一刻館管理人室の中は段ボールだの空き箱だのが散らかされ、こちらも一足早い師走気分である。 「あんたも気が早いねえ。部屋の片付けなんて、まだ始めなくてもいいじゃない」 たばこをふかしながら、一の瀬がけだるそうに言った。 「少しずつ整理しておかないと、大掃除のとき大変ですから」 「毎日毎日掃除して、それでもまだ片付けるものがあるなんて、あたしには考えられないねえ」 皮肉まじりの一の瀬の言葉を聞き流して、響子はぽんぽんと箱を選り分けていった。 「さあ、今日はこんなもんかしら」 「じゃ、あたしがゴミ燃やしとくよ。あんたは後片付けしときな」 「お願いします。助かりますわ」 よっこいしょとつぶやいて箱を持ち上げると、一の瀬は響子のつっかけをはいて庭に出た。ちょうどそこに、建物の外を回って賢太郎が駆けてきた。 「母ちゃん、イモ買ってきたよ!」 「ああ、ちょうどよかった。今から燃やすところだよ」 そんな親子の会話を聞きながら、響子は後片付けにかかった。ガスストーブの箱を横に押し込んで、それからトランクを入れる。 (ん?) 響子はけげんな顔をした。今までちゃんと収まっていたトランクが、きつくて入らない。体重をかけて力まかせに押し込んでみたが、それでもだめだった。 (何か、はさまってるのかしら) 響子は、ふすまの反対側を開けて手を突っ込んでみた。がさっという手触りがあった。引き出してみると、片方の端がとんがった、妙な形の新聞紙の包みが出てきた。 (……?) それが何なのか思い出せないままに、響子は包みを開いてみた。石が出てきた。ごつごつしたその石はほこりまみれになっていて、さわっただけで指先が白く汚れた。  響子はそれを流しに持って行って、水をかけながらタワシでこすってみた。何度もこするうちにしつこくこびり付いていたほこりも取れて、石の模様が現れてきた。 「ああっ……!」 その瞬間、日々の生活の中に埋もれていたある思い出が、響子の中で一気によみがえってきた。  「何か、大変ないわくのあるものなのでしょうか」 五代は不審げに尋ねた。  大きさは十五センチほどか。何とも妙な石である。どこか旧石器時代の矢じりを連想させる形で、深青の地色に、ごくわずか緑がかった白色の、米粒のような模様が散りばめられている。その色合いが美しいといえば美しいが、かといって、取り立てて価値がありそうにも見えない。 「それが、どういう石なのか……もちろん、自分でも調べてみますけれども、五代さんにも……」 五代の疑問には答えないまま、響子は言った。 「でも……ご迷惑でしょうか」 「いえ、迷惑だなんてとんでもない。ただ……」 いくら大学生だからといって、教育学部の五代には、鉱物などまるでなじみがない。 「おれが調べても、分かるかどうか」 「本当に、どんな事でもいいんです! ただの石なら、ただの石だと分かるだけでも……私一人じゃ心許(こころもと)なくって。こんな事頼めるの、五代さんしか……」 響子は懸命に頼み込んだ。  五代は、石の不思議な模様を見つめた。その微妙な色合いに、五代はどこか心ひかれるものを感じていた。 「……分かりました。やれるだけ、やってみましょう」 響子の顔が、ぱっと輝いた。 「うれしい!」 「ちょっと、拝借」 突如として現れた四谷が、二人の前にぬっと顔を突き出した。 「どわっ!」 二人は壁際まで後じさった。四谷は石をひっつかむと、臭いをかいだ。チーズでも味わうように、べろりとなめた。響子が、まるで自分がそうされたかのように身を縮めたとき、四谷が言った。 「古生代、オルドビス期の味がします!」 「えっ」 二人は四谷の前につめ寄った。 「分かるんですか!」 「分かるモンチッチ」 「なっ」 「言ってみただけです」 「……何しに来たんですか、あんたは!」  2 バイトーズ・プロジェクト  「ふーん……」 三冊目の鉱物事典を閉じて、五代はため息をついた。ある程度予想はしていたことだが、わけの分からない種類順で並んでいる上に、「生成の過程によって様々な色や模様が存在する」などと書いてあるものだから、さっぱり分からない。 (子供向けの、何とか百科の方が探しやすいかな) そう思いながら本を戻そうとしたとき、 「五代さん!」 「わっ!」 いきなり声をかけられたので、五代はびっくりして本を取り落とした。閲覧席の方から、一斉にシーッという声が上がった。ここは図書館なのだ。 「こずえちゃん……びっくりさせないでよ」 「ごめんなさーい。でもあたし、ロビーの方で待ってたのに、五代さんいないから」 「ごめん、ごめん。調べ物があったから」 そう言いながら、五代はさりげなく本を拾って、棚に戻した。 「何調べてたの?」 「え……ちょっとね」 「ふーん……」 こずえはそれ以上突っ込まず、 「じゃ、行きましょ」 と、五代の腕を取った。  商店街では、もうかなりの店がクリスマスの飾り付けを終わり、華やいだ雰囲気にあふれていた。「クリスマスセール中」といった文字がちらほらと見え、道行く人のサイフのひもをゆるめようと努力していた。 「あっ、これこれ!」 こずえが叫ぶと、腕を放してファンシーショップのウインドーに駆けて行った。カラー電球が散りばめられた中に、さらに色とりどりの指輪が並んでいる。 「きれい……でも、高いなあ」 「これだって、ただの石なのにね」 五代はぽつんとつぶやいた。 「石? 違いますよ。あたしが欲しいのは、あのネコ」 「へ?」 こずえの指さす先を、五代は見た。金銀メッキの猫のブローチが下がっている。 (三千五百円……) 一週間分の食費に相当する。 「あ、別に、プレゼントに欲しいとか、そんなこと言ってるんじゃないんですよ。ただ、こんなのあったらいいなーって思っただけなんですよ」 「……はは……」 やっとの思いで、五代は愛想笑いを返した。 (……こずえちゃん、ほんとに何も考えずに言ってるのかな) 空恐ろしく思いながら目を移したとき、一段上のブレスレットが目に入った。シンプルな彫刻が上品にまとまっていて、なかなか魅力的な品物だ。響子がつけたらさぞ似合うだろう。 (……値段は?) 七千円。  「あと、茶々丸のパーティー券が三千円だし、部屋代とか田舎に帰る切符代とかもろもろ含めて、五万一千円。これを六日間で稼ぐから、一日八千五百円……坂本、そんなバイトないか」 「アホ、そんなおいしい話があるなら、とっくにおれがやっとるわ。ま、掛け持ちしなきゃしゃーないだろな」 「やっぱりな……」 「おれなんか、正月に彼女と沖縄行く約束しちまったからよー。格安チケット使っても往復五万はするもんな……ん? どうした、五代?」 「……お前なんか、嫌いだ」 「あ?」 「お前なんか、大っ嫌いだ!」   *  「おはようございます!」 「あら五代さん、今日は早いんですね」 「ええ、大学(がっこう)の前に練馬駅で尻押しのバイトなんです。それと、今晩はコンビニの夜間店員のバイトですから、玄関閉めといてもらっていいですよ」 「まあ、いっぱいバイトなさるんですね。お体の方、大丈夫ですか?」 「大丈夫ですよ。それじゃ、行ってきまーす!」 「行ってらっしゃーい!」 「……あいつも熱心だねえ」 「あら、一の瀬さん」 「きのうは『次元戦士アドバン』の着ぐるみで、おとついはビルの貯水槽の掃除で、その前の日は……なんつってたっけ?」 「どうしたんでしょうね、急にたくさんバイト始めるなんて」 「決まってるじゃない、あんたへのプレゼント買うんだろ。もうすぐクリスマスだし」 「そんな、まさか……」 「あいつがあれだけ熱心に金稼ぐ目的つったら、そのぐらいしかないじゃない」 「……」   *  「五代君、遊びましょ」 「……」 「五代君てば」「宴会やろーよ」 「……」 「おおっ、管理人さんのふんどし姿!」 「……」 「鼻つまんでやったら?」 「なるほど、どれ」 「……んがあ。……」 「……たぬき寝入りじゃなさそうですな。これは、今晩は無理かと」 「相当無理してバイトしてたもんねー、しゃーないか」 「つまんないわー、切ないの」  五代の注文を聞いた店員が、ウィンドーを開けて商品を出してきた。 「この猫のブローチと、ブレスレットでよろしいですね」 七千円のブレスレットと、三千五百円のブローチが目の前に並んだ。 「はい」 「一緒に包みましょうか、それとも別々で」 「あ、別々にして下さい」 「リボンは何色になさいますか?」 「ブローチを緑で……ブレスレットは赤にして下さい」 「かしこまりました。少々お待ち下さい」 店員はてきぱきと品物を包み始めた。五代が退屈しのぎにあたりを見渡したとき、レジの向かいの棚に下がっているキーホルダーが目に入った。 (郁子ちゃんにも、何か買ってやろ。明日、家庭教師だし) 「……お待たせしました。一万と五百円になります」 「あの、すいません。これもお願いします」 五代はキーホルダーの一つを差し出した。レジを打ってしまった店員が、ちょっと困った顔をした。  「管理人さん!」 銭湯を出たところで、響子は呼び止められた。 「あら、五代さん。今夜は、バイト無いんですか?」 「ええ、何とか予定していた金額だけ、たまりましたから」 「そうですか。お疲れさまでした」 「いいええ」 しゃべりながら、二人は並んで歩き出した。 「……それで、石のことなんですけどね」 「はいっ」 響子がぱっと顔を上げた。 「ひょっとしたら、分かるかも知れませんよ」 「ほんとですか!?」 「ええ。坂本の先輩に、理学部で地質調査を専門にやっている人がいるんです。その人に見せれば、多分……」 「よかった……」 響子は、手にしたたらいをぎゅっとだきしめた。 「でも、あんまり期待しないで下さいね。分からなかったとき、困るから」 「そんな……」 響子は、明らかな落胆の色を見せた。 「どっちにしても、明日のパーティーの時間までには分かりますよ」 「……分かると、いいな」 響子はまるで少女のような、無邪気な期待の表情を見せた。  3 発覚   1  クリスマスの朝。雲が低く垂れ込め、それがクリスマスにふさわしいようにも、ふさわしくないようにも思えた。 ──天気は西から徐々に崩れだし、夕方から雨が降り出します。気温が下がれば雪になる かも知れません。── 天気予報は、そう告げていた。 (雪ならいいけど……雨じゃ面白くないわね) 石段を掃きながら響子がそう思ったとき、玄関から五代が飛び出してきた。 「おはようございます、行ってきまーす!」 「あ、五代さん!」 二つのあいさつをいっぺんに叫んで駆けていこうとする五代を、響子が呼び止めた。 「とっとっ。はい?」 「あの、今日、郁子ちゃんの家庭教師の日ですよね」 「はい、今年の最後です」 「あたしも今日、音無の家に行きますから。その位の時間に」 「じゃ、向こうで一緒になれますね」 言ってから、五代はふとプレゼントのことを考えた。 (パーティーに来てから渡したら、おばさんや四谷さんに死ぬほどからかわれるだろうし、三鷹だって来てるんだから無理だよな。かと言って音無の家で渡すわけにもいかんし……) 「あの、五代さん、石のこと、よろしくお願いしますね。……五代さん? どうしたんですか?」 「えっ、あっ、あのですね」 言いながら、五代はカバンを開けて、プレゼントを出そうとした。その時! 「何してんの、そんな所で」 カップ酒片手に一の瀬が玄関から出てきたのは、まさにその大事な瞬間だった。 「おばさん!」 五代は仕方なしにカバンを閉じた。 「クリスマスイブにこずえちゃんとデートかい?」 「大学の補講ですっ!」 「じゃ、その後でこずえちゃんとデートだ」 「違いますっ! じゃ、僕急ぎますから」 「あ、ごめんなさい。引き止めちゃって」 「い、いえ……じゃ、行ってきます」 五代はくるっと振り向いて駆け出した。 「行ってらっしゃーい!」 「逃げた、逃げた」 うれしそうに言ってから、一の瀬はどら声を張りあげた。 「茶々丸七時、遅れるんじゃないよー!」 答えの代わりに振られた手が、たちまち見えなくなった。  一の瀬が、空を見上げてため息をついた。 「やっぱり、今夜は雨かねえ」 「気温が下がれば、雪になるかも知れないって言ってましたよ」 「けどさ、東京で雪なんか、めったに降らないじゃない」  五代が渡した石を、坂本は大して珍しがりもせずにいじくり回した。 「特に貴重だとか、金目の物質が含まれてるって感じもしないし……要するに、ただの石なんじゃないの?」 そんな事しか考えられんのかと、五代は心の中で坂本をけなした。 「その、米粒様の点々に、ただならぬものを感じないか」 「うーん……あ、分かった!」 「おい、本当か!」 「これは米粒石だ」 「……」 この男に頼んだのは間違いだったかも知れないと、五代は後悔した。 「いいか坂本、この石絶対になくしたり、こわしたり、食ったりするなよ!」 「するか!」 「……で、いつ分かるんだ」 「そうだなー、先輩と会うのが午後になるから……六時半に、またここで」 「六時半か……」 ま、パーティーには間に合うだろうと、五代はふんだ。 (管理人さんにも、一緒に来てもらおう) 「……ところで坂本、何でわざわざ四ッ谷の喫茶店になんか呼んだんだよ」 「ムードのいい店だと思わんか?」 「そりゃ、まあ」 「実は、彼女のお気に入り。貴様の用事を済ませたあとにこの店で待ち合わせて、イブの夜を共に過ごそうというわけだな。クリスマスをひとりぼっちで迎えるほど寂しいことはないもん、なー」 「……けっ、おれだって管理人さんとクリスマスパーティーやるんだからな」 「一刻館の住人も一緒だろ」 「うるさいっ!!」  「茶々丸さーん、お花ですよー!」 「あー、そのへんに置いといて」 開店祝いのような特大サイズの花かごは、三鷹からのものだった。カードの文面は、「音無さんへ from 三鷹」。 「さすが三鷹さん、やることにそつがないわねー」 「思いっきり露骨だけどね」 一の瀬と朱美は、テーブルをまるまる一つ占領した花かごを見上げた。 「普通、こーゆーのって店あてにするじゃない。茶々丸、完全にダシにされてるよ」 「いーじゃん、あたし気にしないもーん」 「朱美ちゃーん」 マスターが呼んだ。 「お仕事。これ、表に貼ってきて」 「本日貸切」の貼紙を持って外に出た朱美は、思わず身をすくめた。午後になって、かなり気温が下がってきた。日が落ちれば氷点下を割るかも知れない。 「雪……降るかな」  五代とこずえは、池袋・サンシャイン60のプラネタリウムにいた。 ──今宵はクリスマスイブ。満天の星空に、流れ星が一つ。その星に導かれた東方の三博士がベツレヘムにたどり着き、生まれたばかりのイエスに……── クリスマス用の特別プログラムが流れる中、場内を埋めつくしたカップルたちは、手を握ったり、プレゼントを交換したりと、思い思いの時間を過ごしていた。 「こずえちゃん」 ささやき声で呼んでから、五代はカバンを開けた。三つのプレゼントの包みから一つを選び出すと、暗がりの中でリボンの色を確かめてから、こずえに差し出した。 「メリー・クリスマス」 「わあっ」 こずえはひそめた声で歓声をあげた。 「……ありがとう」 身振りでもそれを示して見せてから、こずえはハンドバッグを開けた。 「あたしからも、メリー・クリスマス」 差し出された小振りの封筒を、五代はけげんな顔をして受け取った。封のシールをはがして開けてみると、クリスマスカードの間に、紙きれが一枚はさまっていた。 (……「セーター引換券」?) 「今日までに編み上げようと思ったんですけど、間に合わなくって。ごめんなさい」 なるほど、よく見てみれば、その「引換券」はこずえの手書きだった。五代はくすっと笑った。 「こずえちゃんも、開けてごらん、それ」 言われたとおりに、こずえは包みを開けた。そして猫のブローチを見たとたん、「きゃあっ」と悲鳴のような歓声をあげた。 「しーっ」 「……とっても、うれしい」 「気に入ってくれた?」 こっくりとうなずくと、こずえは五代の肩に頭を寄せた。  プログラムが中ほどまで進んだとき、五代の肩が急に重くなった。見ると、こずえは頭を完全に肩に載せかけて、寝息を立てている。  揺り起こそうとして、五代は手を止めた。 (……がんばったんだろうな、きっと) 徹夜したのかも知れない。こずえの寝顔は、全く気持ちよさそうだった。  「今日、吉永さんの家でテニスサークルのクリスマスパーティーやるんです。コーチも来ますよね」 「せっかくだけど、今日は先約があるんだ。忘年会には出るよ」 そう言って、三鷹は席を立った。 「わあ、じゃあ本命の人とデートなんだ。誰なんですか」 「君たちの知らない人だよ」 「まっ、憎たらしい」 「おいおい」 「どんな人かしら。三鷹コーチの本命なんて、幸せ者よねえ」 三鷹は、フッと気取ったため息をついた。 「本人は、そうは思ってないようだけどね」   2  「お義父さま」 響子はふすまを開けた。 「おお響子さん、よー来た」 新聞の囲碁欄を手に石を並べながら、周介はたずねた。 「捜し物は、見つかったかね」 響子は首を振った。 「写真の載ってる本が、少なくて……」 座布団に座ると、響子はほっと息をついた。 「不思議ですね。もうすっかり忘れていたのに、一度思い出すともうどうにもならなくて……」 周介が、ぱちっと石を打った。 「そのまま思い出さん方が、よかったのかも知れんなあ」 「え」 響子はかすかな声をあげた。 「忘れた方が、いいんだよ」 「そんな……。そんな事、できません」 響子の声が、心なしか硬くなった。周介は響子に聞こえぬように、小さくため息をついた。  五代の赤ペンが、郁子のノートの上をリズミカルにすべっていって、最後の答案に大きくマルをつけた。 「よし、今日はここまで」 「やったー!」 高校受験を控えているというのに、郁子は実にうれしそうにノートを閉じて、席を立った。 (……ま、いいか。結構よく出来てるもんな) 五代はカバンを開けて、中から一番小さな包みを出した。 「郁子ちゃん」 「ん?」 「はいっ、ごほうびだよ。クリスマスだしね」 「わあ! 何かな、開けていい?」 「いいよ」 郁子が袋を開けると、中から半魚人のキーホルダーが出てきた。 「わーい、ありがとう!」 「何にしようか、迷ったんだけどね」 「カバンに付けちゃおっと」 小さくステップを踏んでジングル・ベルをハミングしながら、郁子はくすっと笑った。 「郁子ねえ、変なこと思い出しちゃった」 「え?」 「おじさまがね、おばさまにあげたプレゼント」 五代の心が、さっと緊張した。 「惣一郎さんが?」 「それがねえ、石なの。変な形してて、米粒みたいな模様がいっぱいついてるの。このっくらいの大きさで……」 言いながら、郁子は十五センチぐらいの幅に手を広げてみせた。もう、間違いなかった。「おじさまが人にプレゼントあげたの、後にも先にもあの一回きりだったんじゃないかなあ。いくら地学の先生だからって、石のプレゼントなんておかしいわよねえ」 「……そ、そうだね。はは、は」 五代は愛想笑いをしてみせた。だが、ついさっきまで五代を包んでいた心浮くような気分は、もう戻ってこなかった。 (……クリスマスなんか、嫌いだ)  東京行きの快速電車は、中野を発車した。並びで空いた席がなかったので、五代と響子はドアのそばに立った。 「雪、降るでしょうか。冷え込んできたから、ひょっとしたら降るかも知れませんね」 「……はあ」 五代がさっきから生返事ばかり繰り返すので、響子はむくれた。音無の家を出てからずっと、五代は黙りこくっている。  正直なところ、響子が話しかけてくるのがうっとうしかった。一人でほっといてほしいと思った。響子が中野の駅で池袋までの切符を買ってしまったときも、それを止める気も起こらなかった。  しょげ切った五代と対照的に、響子は明るかった。頭の中で何かメロディーでも鳴らしているのか、窓の外を見ながら、体が小刻みに揺れている。そんな響子を、五代はすねたような気分で見つめていた。 「あの……」 「はい?」 「……管理人さん、楽しそうですね」 家を出てから初めて、五代がまともに口をきいた。響子はきょとんとして五代の顔を見つめたが、すぐに明るい声で答えた。 「ええ。もうドキドキしちゃって、ゆうべは眠れませんでした」 石の事に違いない。響子が期待しているのは、惣一郎の石の話だ。はずむ心が、押え切れずに声に出ている。五代は小さくため息をついた。  響子の気持ちはよく分かっていた。悪気があって隠していたのではない。五代を不愉快にさせまいと、気を遣っただけなのだ。だが真実が分かってしまった時、その気遣いはむしろ余計に五代を不愉快にした。そして響子への怒りが消えた後に、たまらない寂しさだけが残された。生真面目で、融通のきかない響子。惣一郎のことを思い出すたびに、後ろ向きになる響子。そのたびに五代は一人ぼっちにされる……  窓ガラスに、響子の顔が映っていた。もちろんそれは幻であって、本物の響子は五代のそばに立っている。だが今の五代にとっては、そばにいる響子の方が偽物だった。響子の心はガラスの向こうに行ってしまって、五代がいくら手を伸ばしても、それをつかむことはできないのだ。そうとしか思えなかった。  ガラスの中の響子が五代の目線に気付いて顔を上げた。そしてこちらの響子と一緒に振り向いた。五代はあわてて目をそらした。そして心の乱れをごまかすように、口を開いた。 「あ、あの……」 「はい」 「あの石……」 「はいっ」 響子の顔が、ぱっと明るくなった。その明るさが、五代の心をいっそう暗くした。 「……いえ、いいんです。なんでもありません」 「……はあ」 響子はけげんな顔をした。 (ずるいよ、惣一郎さん……謎かけしたまま死ぬなんて……)  電車は大久保駅の脇を通り過ぎた。新宿まで、あとわずか。坂本のところに響子を連れて行こうか、やめようか。五代は悩んだが、それを決めかねているうちに電車は減速し、ポイントの音を複雑に響かせて、新宿に着いてしまった。  ドアが開いた。ホームに降りた響子に、五代はあわてて声をかけた。だが、 「あっ、あの管理人さ……」 「音無さん!」 快活そのものの声が、五代の言葉を遮った。 「あら、三鷹さん。乗ってらしたんですか」 「ええ、吉祥寺で別のテニスサークルの集まりがあって。偶然ですね、隣の車両に乗って たなんて」 五代はゆっくりと、ホームに下ろした足を戻した。 「でも三鷹さん、クルマじゃないんですか?」 「シラフで帰らせてもらえるわけないでしょ」 「あ、そう言えばそうですね。それじゃ、五代さんも一緒に……あら?」 五代が自分のそばにいないことに、響子ははじめて気がついた。  発車ベルが鳴りだした。響子は振り返った。そして電車に乗ったままの五代を見て、仰天した。 「五代さん!」 ベルが鳴りやんで、車掌の笛が鋭く鳴った。 「僕、石を取ってきますから。先に行っててください。でも、必ず……」 ドアが閉まった。間髪を入れずに電車が動き出した。二人とも、口を開いて何か言いかけた中途半端な顔のまま、相手を見送っていた。  赤いテールランプと行先幕の明りが遠ざかり、たちまちビルの谷間に吸い込まれていった。 (五代さん……どうして……)  一人ぼっちの五代を乗せて、電車は都心に向かっていた。カバンに突っ込んだ手に、たった一つ残ったプレゼントの包みが触れた。 (また、渡しそびれちゃった……) それで、逆にほっとしたような気もした。惣一郎を心に抱いたままの響子に、プレゼントを渡したくはない。 (……おれ、クリスマスなんか、嫌いだ) その瞬間、白いものがさっと窓の外ををかすめた。 「あ……」 雪。一の瀬の予想を裏切って、雪が降り出していた。無数の白い結晶が車内灯に照らし出され、その舞うさまが夜空にくっきりと浮き出していた。 (雪……か) 故郷の新潟でうんざりするほどつきあってきたはずなのに、東京で見る雪はなぜか新鮮だった。  ホワイトクリスマスなど、期待していない。だが、落ちると思えば吹き上げられ、渦を巻き、四方八方、風のままに舞う雪を見ているうちに、暗く落ち込んで凝り固まった気分が少しずつほぐれていくのを、五代は感じた。  無垢な雪は、全てを覆い隠してくれる。悲しみも、未練も嫉妬も何もかも、全てその白さの下に……  4 中央線・石を求めて西東   1  「そろそろ、始めちゃおっか」 「そーねー」 一の瀬は足の間から一升びんを出し、朱美はビールびんを配り出した。 「そんな、まだ七時になってませんよ」 「まだというより、もうすぐ七時でやんすが」 「五代君と一緒じゃなかったのー?」 「それが……新宿まで一緒の電車で来たんですけど、降りずにそのまま行っちゃって……そんなこと言ってなかったのに、どうしたのかしら……」 「まー、爪に灯ともして買ったパーティー券、無駄にはしないと思うけどね」 「すぐ来るよ。始めちゃお」 そう言いながら、一の瀬はクラッカーを出した。 「それではみなさんご一緒に、メリー・クリスマース!」 パン、スパパーンと派手な音が響いて紙テープが散らばり、火薬の臭いが立ち込めた。あちこちで一斉にビールの栓が抜かれ、コップが続々と満たされた。 「音無さん」 一人、つまらなそうな顔をしている響子に、三鷹がコップを差し出した。 「メリー・クリスマス」 響子はちょっと笑って、コップを合わせた。だが、その笑いはすぐに消え、コップのビールにも形ばかり口をつけただけで、すぐテーブルの上に置いてしまった。 (一人前に音無さんを悩ませやがって……生意気だぞ、五代君)  五代は、喫茶店のマガジンラックから三冊目の雑誌を取り出した。六時五十分、坂本はまだ来ない。 (パーティーに完全遅刻じゃねえか。何やってんだよ、あいつ) 心の中で毒づくと、いらだたしげにページを繰った。その時、後ろで妙な猫なで声がした。 「ごだーいくーん」 「坂本お! 遅いじゃないか、何やってたんだよ」 「すまん、すまん。ちょっとな」 坂本は、妙に腰が低かった。 「んで、分かったのか」 「あ……分かったには分かったんだが……あ、お姉さん、レモンティー一つ」 「何なんだよ」 「うん……あのな」 坂本は上目づかいに五代を見てから、また目を伏せた。 「その……石、忘れてきた」 「あ」 五代はぽかんと口を開けた。 「……忘れたって、どこに。お前のアパートか」 「……中央線の、電車の中」 五代の体から、一気に力が抜けた。がたんと背もたれによりかかって、五代は呆然と天井を見上げた。 「すまんっ! この通りっ!」 坂本は思いっきり五代を拝んだ。 「……いいのかもな」 五代の口から、つぶやきがもれた。 「は?」 「……これで、いいのかもな」 何のことやら坂本には分からなかったが、とりあえず自分の立場に都合がいいので、無条件に賛成した。 「そ、そうだよ。何たって、たかが石一つだもんな。そのうち、また似たようなの拾って くるからさ」 (たかが、石一つか……) 坂本には分かるまい、その「たかが」がどんなに大事なものか。それがなくなったと知れば、どれほど響子は悲しむだろうか。それは、想像するのもいやなことだった。無邪気に惣一郎の思い出にひたる姿を見るのもいやだが、それ以上に耐えられないことだった。 「坂本」 「ん?」 「駅、行こ。忘れ物の係」 「やっぱ……行くの?」 坂本は露骨にいやそうな顔をした。 「……分かったよ、行くよ。おれが悪いんだから」 「大体、何で遅れてきたんだよ」 「それがよー、ここに来る途中に彼女とばったり会ってよー。で、つまらん事でケンカになって、新宿で彼女が飛び降りたのを追っかけたりしてたから……」 「……貴様ってやつは……」  出前のラーメンが届いたところに用事を持ち込まれた駅員は、かなり迷惑そうだった。終着の東京に問い合わせを入れる声も、どこか投げやりだった。 「だから石(いス)、石です。二十分ほど前の上りで……エ? どんなって……お客さん、どんな石? なんかきれいな色スてんの?」 「いえ、特にきれいとかいうことは……ただの石です」 「ア……特別な事はない石だそうで……ああ、お客さん、どゴに忘れたの」 「えっと、後ろの方です」 「何両目?」 「さあ……」 「思い出せ!」 五代がせかした。 「そんなもん覚えてるくらいなら、荷物を忘れたりせん!」 駅員はため息をついた。 「あー、後(うス)ろの方だそうで……はあ、はあ、そんでスか」 駅員は電話を切って振り向いた。 「そういうモンは、届いとらんと」 「はあ……」 五代はうつ向いた。 「ま、しょうがねえよ。な、五代」 坂本は、さっさと事務室を出てしまいたいそぶりで、五代の肩を抱いた。その時、ラーメンのどんぶりを引き寄せながら、駅員が言った。 「ま、ナンだな、二十分ほど前の上りツウたら、もうそろそろ東京駅から折り返して来るころだから、下り電車で乗っていたあたりを見てみるっツウのも手だな」 五代は急に元気になった。 「坂本、行くぞ」 「え……」 ドジを踏んだ弱味で、坂本はいやと言えなかった。  ──吉祥寺、吉祥寺── ドアが開くと同時に、どっと客が降りてきた。だが電車が出て行き、客たちが引き波のように階段を降りていってしまうと、ホームに残っている人はわずかである。そのわずかの中に、五代と坂本がいた。 「これで、何本の電車探したんだ」 「えっと、一、二の……六本目だ」 東京駅から来る電車に乗り、坂本が乗ったあたりの車両を大急ぎで探してから次の駅で降りて、後続の電車に乗る。それを繰り返して、ここまで来てしまった。すでにここは二十三区内ではない。  風が思いきりホームを吹き抜けて、坂本は震え上がった。 「寒いぞ、チクショー。さっさと次の電車よこせよな……おい五代、どこ行くんだ!」 「ちょっと、電話」 「あっそ」 売店裏の公衆電話から、五代は茶々丸にかけた。十回くらいコール音が鳴ってから、やっと朱美が出た。 「あら、五代君? 何してんのよ、早くおいでよ」 すでにろれつの回らない声だった。 「あ、それが……ちょっと手違いがあって、もう少し遅れます。時間は、ちょっと分から ないんですけど、でも、必ず行きますから。管理人さんにそう伝えて下さい」 「伝えりゃいいのねー、わーったわーった。大丈夫よ、誰もあんたのことなんか気にして ないもん。じゃーねー」 「あ、ちょっ……」 電話は切れた。五代はしぶしぶ受話器を戻した。 ──まもなく、一番線に電車がまいります。危険ですから、ホームの内側にお下がりください── 「おい、次の電車来るぞ!」 「わーってるよ!」 五代と坂本は乗車位置に立って、電車を待ち受けた。だがやって来たのは、時速百キロで驀進(ばくしん)する特急電車だった。電車は巻き上げた雪を情容赦なくホームにたたきつけ、二人は思わず顔をそむけた。  「手違い?」 「よく分かんないけどさー、そう言ってたよ」 「はあ……」 朱美の伝言を聞いた響子は、うつ向いて考え込んでしまった。 「気になりますか」 「はい」 三鷹の問いに、響子は即答した。 「そうですか……でも、」 今は楽しく飲みましょうよと言おうとした時、朱美が三鷹の耳に息をかけた。三鷹の全身が総毛立った。 「三鷹さんだと、五代君じゃできない遊びが出来るから楽しいわー」 「五代さんに、お願いしたことがあるんです」 響子が唐突に言った。 「なんだ、そうだったんですか。……でも、」 どんな頼み事をしたのかと聞こうとした時、四谷が三鷹の口に指を入れて、左右に引っ張った。見るからにおかしな顔になって、酒屋の山口が爆笑したが、響子は見向きもせずに、手の中のグラスを見つめていた。   2  五代と坂本は、結局三鷹まで行ってから、あきらめて引き返した。吉祥寺から乗った電車が、東京を七時十分ごろに発車したものだということに気付いたからだった。その電車が東京に向かって四ッ谷を通ったのが六時五十分。坂本が乗っていたはずがない。  二人の乗った上りの快速電車は、がらがらだった。甲高いモーターの音だけが、わんわんと車内にこだましていた。 「なあ五代、あの石そんなに大事なものだったのか」 「……おれじゃなくて、管理人さんにとってな」 「はあ……」 何となく事情を察した坂本は、ため息をついた。 「なあ、坂本」 「ん?」 「四ッ谷に着いたら、もっぺん事務室に顔出さんか。万一ってこともあるし」 「え……あ、ああ、いいとも……」 坂本はひきつった笑いを浮かべながら、答えた。   *  「ああ、あの後すぐに連絡があってなあ。東京駅で保管しとるそンだ」 「ほんとですか!」 「ああ。すぐ行ってきんさい」 駅員の声も、さっきよりは上機嫌だった。 「おい、よかったなあ五代!」 「ああ、まあな」 「すぐ行こうぜ。それから、どっかで温いもんでも食おう」 「ああ、それじゃ、ありがとうございました!」 威勢のいいあいさつをして二人が出て行った後、駅員はふと考え込んだ。 「けんど、折り畳み式の石(いス)って、何だろな」   *  「ったく、何で石がイスになるんだよ」 「あのおじさん、少しなまってたからなあ」 天国から地獄というほどでもないが、王座から地べたにけ落とされたような気分だった。折り返しの快速電車は着いたばかりで、まだ座席がざっと埋まっているぐらいだった。 「無駄足だったけど、しょうがないよな。やるだけやったんだ」 「ああ……」 五代は元気なく返事した。響子にしてみれば、あれは惣一郎の遺品に等しい代物だったのだ。それを不注意でなくしてしまったとあれば、くやんでもくやみ切れない。 「……なあ、一緒に行って、管理人さんにあやまってやろうか」 「い、いいよ。……引っ張り回しちゃって、悪かったな」 「まー、昼メシ一回ってとこかな」 「お前なあ!」 五代は坂本につかみかかった。 「じょ、じょーだんじょーだん。そんなに怒るなって」 「冗談になっとらん!」 それから、二人は背もたれにがたんとのけぞると、同時にため息をついた。 「ま、忘れ物として届けられると思ったのが、甘かったのかも知れんな」 「……え?」 坂本の言葉に、五代は思わずその顔を見た。 「しょせんは石ころ。縁もゆかりもない人間に取っちゃあ、ごみも同然だろ。おれなんか、 見つけたってすぐごみ箱に捨てちまうもんなあ」 五代はいきなり立ち上がって、ホームに飛び出した。 「おい五代、どうした……あっ、まさか!」 手近のごみ箱を見つけると、五代はいきなり手を突っ込んで中をあさり出した。近くにいた乗客たちが、いっせいに五代を見た。 「お、おいやめろよ! 人が見てるぞ!」 「お前も手伝え!」 腕を肩のところまで突っ込んで中を探ると、五代は次のごみ箱を目指した。坂本は一応ついてきたが、あさっての方向を向いて、必死に無関係の人間を装っていた。  スポーツ新聞やらみかんの皮やらコーヒー缶やらがまとわりついてくる中に、五代は異質な感触を探り当てた。硬さと重量感がある。 (!) 底へ沈み込もうとするそれを、必死につかんで引きずり出す。 (あっ……た……) 青い地色に、米粒状の斑点。まぎれもない、あの石だった。新宿駅で坂本が忘れてから二時間、ようやくそれは五代の手元に戻ってきた。 「おおっ、やるじゃねえか! よかったなあ!」 「……あ、ああ」 それから、二人は声をたてて笑い出した。どこかでベルが鳴り出し、ホームアナウンスが何かしゃべっていたが、二人は気にも止めなかった。 「よっし、帰ろうぜ。おっと、その前に温いもんだ……ん?」 背後で、プシーッ、バタンという音がした。振り返ると、オレンジ色の車体がゆっくり動き出していた。五代のカバンを乗せたまま。 「あっ、あ……!」 五代は駆け出した。イスの上に置いていたはずのカバンは、誰かに勝手に網棚の上に上げられていた。 「待て、止まれ、おれのカバン、プレゼントー!」 電車が五代の懇願に耳を貸すはずもない。それは決然として走り去って行く。五代はぺたりとホームに座り込んで、電車を見送っていた。 「……最っ低」 坂本はがくりと柱にもたれかかった。  カバンが見つかったのは、二十分後のことだった。 「中野駅で保管してますよ」 「中野かあ」 「まあ、そんなに遠くないしな」 二人はほっとしかけたのだが、駅員は続けて恐ろしいセリフを吐いた。 「けどねえ、たった今連絡が入ったんだけど、大久保駅のガードにスリップしたトラック が衝突して、新宿と中野の間がストップしとるんですわ」 ──五代は今度こそ凍りついた。 「おい、五代?」 動かなくなってしまった五代の目の前で、坂本は手を振った。 「……あの、今すぐ取りに行かなくちゃいけませんか」 「別に、明日でも構いませんよ。一週間ぐらいなら、ちゃんと保管してますから。でも、 新宿で丸の内線に乗り換えれば、中野に行けますよ」 「そうだよ。それにお前、プレゼントとか叫んでなかったか?」 五代はちょっと黙ったが、つぶやくように言った。 「……いや、いいんです。家が池袋線の方だから戻るの面倒だし、それに……もう、疲れちゃったから……」  時計の長針と短針が、一直線になった。九時十七分。  カウンターにほおづえをついて、響子はため息をついた。マスターが響子の前に来た。「六回目」 「え?」 響子はマスターの顔を見た。 「響子さんが、ここに来てからついたため息の数」 「数えてたんですか?」 響子は恥ずかしそうに笑って、うつ向いた。 「五代君、遅いね」 「え……」 響子が目を上げると、マスターが小さく笑った。 「そんな、……あたし別に、五代さんを待ってるわけじゃ……」 「ちょっとお!」 一の瀬のどら声が響いた。 「どーしたのよ管理人さん、一人で愁える未亡人しちゃってえ」 「五代くんがいないからでげしょ」 「三鷹さん半分分けたげるから、こっちおいでよー」 「いえ、私は……どうぞお構いなく、続けて下さい」 「そうかーい」 一の瀬たちはそれ以上からむ様子もなく、また三鷹をおもちゃにして遊び出した。響子はもう一度時計を見ると、七回目のため息をついた。  新宿で坂本と別れた五代は、駅の外に出た。  もうこれ以上、電車に乗りたくなかった。確か、時計坂へ直行するバスがあったはずだと思い、それに乗ろうとバスターミナルを探した。だが、目指すバスはいなかった。渋谷を出て明治通りを走るそのバスは新宿駅には寄らず、新宿三丁目からでないと乗れないのだった。  いやでも電車をつかった方が、よほどましだった。けれども、いまさら戻る気もしない。五代はターミナルを出て、甲州街道の陸橋を歩き始めた。雪はますます強く降りしきり、街全体を白く変え始めていた。  五代は陸橋の真ん中で立ち止まった。もう、何をするのも面倒だった。できるものなら、そのままそこで横になって寝てしまいたかった。  手にした石が、じゃまだった。何が悲しくて、こんな石のために自分ばかり苦労しなければならないのだ。 「……行くの、やめようかな」  5 ふたりの時間 「チークダンスをやりませんか」 朱美をわざわざトイレに連れ込んで、三鷹は妙な提案をした。 「チークダンス?」 「そ。電気を消して、キャンドルとツリーの灯りだけで踊る」 「いーわねー! マスターに相談してみる」 「よろしく」 二人が外に出たとたん、クラッカーが派手に鳴った。 「朱美ちゃーん、とうとう三鷹の毒牙にかかってしまったかー!」 「三鷹さん、責任を取りなさい!」 「え、いえ、僕らは……」 「大丈夫、何にもされてないから。キスだけよ」 「え、ちょっ……」 三鷹は思わず響子を見た。ところが、響子は三鷹を見ていなかった。まるで、今の騒ぎに全く気付いていなかったように、じっと時計を見つめていた。 (……心ここにあらず、か) 三鷹の顔がしかんだ。  時刻表では五分後にバスがあるように書いてあったが、この雪である。当然のこと、時間になってもバスは来なかった。  バス停のそばで、コンビニが暖かそうな光を放っていた。バスが通過してしまうといけないので中に入らずにいたのだが、ガラス張りの店内をぼんやり眺めているうちに、五代はふとあることを思いついた。  五代は店に入った。目指すものがあるかどうか心配だったが、最近のコンビニは重宝で、ちゃんと置いてあった。レジに立ってから思い出して、もう一つ買い物をした。  店を出ると、十分遅れのバスがちょうどやって来るところだった。  マスターが、グラスに溶かしたロウを注ぎ、芯を立ててキャンドルを作った。それに朱美が火をつけて、テーブルごとに配って回った。 「何のまじないですか、これは」 「ないしょー」 朱美はカウンターにも一つ、キャンドルを置いた。その時、朱美はわざと響子の目と鼻の先にそれを置いた。 「せっかくこれから出し物やるんだから、楽しんでよー」 「はあ……」 響子は生返事をして、手の中でグラスを回した。一時間前からずっとそうしていたので、中の氷はすっかり溶けてしまっていた。  電話が鳴った。響子は反射的に顔を上げた。 「はい、茶々丸。……片山さん? 来てませんよ」 (何だ……) 響子はまたため息をついた。マスターも、もうその数など数えていなかった。  がらがらのバスに乗り込んだ五代は、一番後ろの座席に座った。そしてさっき買ったクリスマスカードとボールペンの袋を開けると、半身になってメッセージを書き始めた。  後ろの平らな部分にカードを置いて書くのだが、一番よく揺れる場所だし、エンジンの振動も伝わってきてなかなか書きにくい。バスが走っている間はメッセージを考え、信号などで止まったときにそれを書くということを繰り返した。おまけに途中で書き損じて、新しいカードに一から書き直したりしたので、書き上げるのに三十分ぐらいかかった。 「……よし、こんなもんかな」 書き上げたクリスマスカードをざっと見直してから、五代はそれを折り線からきっちり二つ折りにして、曲げないようにポケットに入れた。 「ん?」 五代は外を見た。さっきとほとんど景色が変わっていない。環八との交差点は過ぎたのに、まだ渋滞が続いている。関越道が練馬まで開通してから、めっきり車の流れが悪くなった。  五代は席を立って、運転席に行った。 「あの、ずっとこの調子なんでしょうか」 「おれに聞かれても分かんねえよ」 ハンドルに腕を乗せたまま、運転手は投げやりに言った。 「あの、すいません。ここで降ろしてもらえますか」 運転手は五代をじろりと見ると、黙って後ろのドアを開けた。  五代は走り出した。時計坂まで、あと三キロ。  マスターが店内の調光スイッチをひねった。照明が暗くなった分、キャンドルの灯りが美しく映えた。 「へえ、なかなかきれいじゃない」 「でしょー」 一の瀬たちがそちらに気を取られているすきに、三鷹は席を立って響子の隣に移った。そして響子の鼻先にあったキャンドルを取り上げた。それでようやく響子は顔を上げた。 「五代君、もう来ないかも知れませんね」 「……そうでしょうか」 響子は三鷹に同調しなかった。 「来ても、間に合わないんじゃないかな」 三鷹は何とかして、響子の気を五代からそらそうとした。だがその時、 「だめよ、三鷹さんはこっちー」 朱美が三鷹の首を抱いてボックスの方に引きずり戻した。  響子はまた一人になって、ほの明るいドアを眺めた。その時、そこに人影がさした。店の前の街灯の光が、その姿をくっきりと映し出した。 「五代さん!」   *  いいかげんだれかけていたパーティーの雰囲気が、名脇役の登場で再び活気づいた。 「五代君、どこで浮気してたんでやんすか」 「そーよー、みんな待ちくたびれちゃったわよ」 「まあいいじゃないの、石神井のあたりから走って来たってんだから勘弁してやろうよ。 とりあえず、かけつけ三杯」 三鷹以外の全てのメンバーは、上機嫌だった。 「それにしてもこのジャンパー、前が水浸しってことは……どっかで転んだんでしょー」「はあ、下の跨線橋のところで……」 「ドジねー。おまけに雪ん中走ってずぶ濡れになるなんて」 響子はまた一人カウンターに座って、五代から受け取った石とクリスマスカードを並べた。 「だから何なのよ、それ」 朱美がじろりとのぞき込んだ。 「え……ですから、何でもありませんてば」 「五代君の遅刻の原因、それなんじゃないのー?」 「……」 本当に、何があったんだろと思いながら、響子はカードを開いた。 ──石は石灰岩、白点はフズリナと呼ばれる虫の化石だそうです。約三億年前、点々の一つ一つが生きて泳いでいたわけで、……   *  響子の後ろ姿を、五代は黙って見つめていた。 (ほんとに、おれってお人好しだな……死んだ亭主の思い出のために……) バスを降りて走ったりしたのは、結局パーティーに間に合いたかったから……クリスマスプレゼントの石の素性を、クリスマスイブに知らせたかったから。響子はきっとそうしてほしかっただろうから……それだけだった。石を捨てることも、響子に恨みごとを言うことも、パーティーをサボることさえ、五代にはできなかった。結局、自分は響子を喜ばせることしかできない。どんなに自分が傷ついても…… (……いいんだ、それで……お人好しの五代でも……) 五代はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。 (ん? こずえちゃんのくれたカード……ポケットに入れたはずなのに……) その時、マスターが調光スイッチを0にした。一瞬、店の中が真っ暗になった。   *  響子の目は、カードの最後の一行にくぎづけになっていた。 ……ただの石どころか、とてもすてきなプレゼントだと思いますよ。 五代── (……五代さん、知ってたんだ……) 五代らしくないやり方だった。それだけに、その一言に込められた五代の気持ちが、響子の胸に鋭く刺さった。  響子は、おずおずと後ろを振り向いた。突然電気が消えたので、どこに何があるのかさっぱり分からない。だが、いくら闇を透かして見てみても、そこに五代はいなかった。ただ、きいきいとドアが揺れ続ける音と、外から吹き込んだ冷気だけが、そこに残されていた。  ジュークボックスからジャズが流れ出すのをしりめに、響子は店を飛び出した。  「あった、あった」 やっぱり、跨線橋の上で転んだときに封筒を落としたのだった。雪の上に落ちてちょっと湿ってしまったそれを、五代は拾い上げた。その時、 「五代さん!」 五代は振り返った。響子がそこにいた。息をはずませて、右手に五代のカードを握りしめて、響子が立っていた。 「一体、どうしちゃったんですか」 五代は封筒をそっとポケットに押し込んだ。そして、答えをごまかした。 「……響子さんこそ」 「え……」 響子は答えにつまった。言われてみれば、よく分からなかった。 「……だって、いきなり出て行っちゃうんですもの」 でも、それだけだったのだろうか。五代のカードを見たときに感じた、ずきんとするような胸の痛み……それは、罪の意識だったのかもしれない。それをつぐないたいと思う気持ちが、響子に五代を追わせたのだろうか。コートも着ないままで……  五代はジャンパーを脱いで、響子の肩にかけてやった。 「……あの石、惣一郎さんからのプレゼントだって、知ってたんですね」 「郁子ちゃんに、聞いて」 短く答えると、五代は柵の雪を払って、下を見た。電車が近付いていたのだが、雪に音を吸われて気付かなかった。こもったような継目の音と、機械のうなりを残して、電車は足元を通りすぎた。それを待って、響子は口を開いた。 「本当のことを言えば、きっと不愉快に思うだろうし、かと言って、他に頼める人もいなくて……でもやっぱり、ごめんなさい」 「いいんですよ」 五代はそう言ったが、響子は構わずしゃべり続けた。 「あたし、茶々丸で待っている間、とても変な気分だった。自分でもおかしい位、落ち着かなくて、どきどきして……そのうち、石のことなんか、何だかどうでもよくなってきて、頭に浮かぶのは、五代さんまだなのかな、どこで何してるのかな、ってそんなことばかり……だから、……何かこう、うまく言えないけど……」 五代は線路から顔を上げて、響子を見た。響子はもどかしげな顔をしていた。自分が感じているある思いを、五代に伝えたい。それなのに、それはまだ小さくて、ほのかで、あいまいで……思いつく言葉が全てそぐわなくて、表現できない。  五代はそれを感じた。感じられただけでいいと思った。無理に生硬な言葉に置き換えることはない。そのほのかな感情を、ほのかなままで共有したいと思った。  返事の代わりに、五代は微笑みを浮かべた。その顔に、ぱあっと光が当たった。  さっきと反対の方向から、電車が走ってきた。電車は跨線橋の下をくぐって、二人の目の前を遠ざかってゆく。窓からもれる明りが雪を照らし出して、なかなか美しい眺めだった。それを響子と一緒に眺めているから、なお一層……  電車はカーブの手前で減速し、一両ずつゆっくりと曲がっていって、見えなくなった。「……帰りましょうか」 「はい」 響子は答えてから、言い足した。 「私、このカード大事にします。五代さんからの、クリスマスプレゼントとして」 それを聞いた五代は、にこっと笑った。その一言で、全てが報われたような気がしたのだった。 「少し、遠回りして帰りませんか」 「はい」 響子も微笑み返した。  二人は歩き出した。空を覆っていた雪雲は次々と切れ、すきまから無数の星が顔をのぞかせていた。 「……あの中に、三億年前の光もあるんでしょうね」 「そうですね……その星の光も、あの石も、三億年かかってあたしたちの所に届いたんですね……」  今の二人には、それがものすごく不思議なことのように思えた。    ──終──